『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その18)

第三部 感情の起源および本性について No6

ここで私自身、これまで棚上げにしてきた疑問を徹底的に考えてみることにしたい。

疑問というのは、スピノザは一方では人間精神が身体の観念である(第二部定理15証明)と言いつつ、他方では人間精神が身体を認識しない(定理19証明)と一見矛盾したようなことを言うのである。

つまり、人間精神は身体の観念でありながら身体を認識しないのである。これは一体どういう意味か? 要するに身体の観念であるということと、身体を認識することは別のことだと言うのである。スピノザの認識論について様々な解説を渉猟してみたが、この観念と認識との関係を明快にしたものは見当たらなかった。というか私が基本的前提を分かっていないだけかもしれない。

そこで『エチカ』に即して考えてみると、スピノザは観念について「十全」「非十全」の区別をしている。「十全な観念とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念」(第二部定義4)であるが、では真の観念とは何か?「真の観念はその対象と一致しなければならぬ」(第一部公理4)のである。

すると、身体についての「十全な」観念とは、身体を離れて、身体の観念それ自体が身体との一致であること、すなわち身体の微細構造から刺激反応のメカニズム、因果関係、さらには身体を成り立たせている素粒子の原因まで完全な認識を含んだ観念ということである。そのような「十全」な観念は、あたかも身体の相似代同物のようなものであり、神しか持ち得ないものであろう。

確かに『エチカ』は共通概念によって第三種の認識がどういうものか示すことによって、人間が努力次第で「十全な観念」を持ちうるかのような指針を与えているという印象を受けるのだが、私見では、人間的認識が「非十全な観念」、神の認識が「十全な観念」に対応しているとしか思えない。なぜなら『エチカ』の記述でも、人間精神が「十全な観念」をもつとき、その人間精神は神の一部となるからである。問題はその時の「人間精神」はもはや人間ではないということである。もし人間にとどまるのであれば、論理的潔癖を重んずるスピノザは必ず、「人間精神に変状した限りでの」神の知性の一部である、と保留条件を付加するはずである。

第二部定理11系 この帰結として、人間精神は神の無限な知性の一部である。

『エチカ』を読んでいると、あたかも「観念」が客観的事物のように扱われている印象を受けるのだが、その理由がこれで分かる。

つまり神の知性がもつ「十全な観念」は客観的事物の相似代同物だからである。なぜなら「真の観念」とは対象との一致だからである。ずばり言えば「非十全な観念」は人間の主観的認識であり、「十全な観念」は神の認識として、客観的事物と一致した観念、いわば客観的事物そのものの代理なのだ。(ここでは対立関係を強調するために事物を対象とする観念に限定している。もちろん「十全な観念」は客観的事物だけでなく、観念それ自体を対象とする一致もある)

この神の知性と人間知性との明瞭な対立関係が対立として見えにくいのは、スピノザにとって人間精神が神の知性の一部でもあるからだ。

以上のように考えると、人間精神は身体の観念であると言われてみても、我々が身体について完全な認識を得ていない理由が分かる。人間身体の十全な観念は神の知性しか持ちえないからである。

これでだいぶスッキリしたが、しかしなお執拗に最初の疑問が舞い戻ってくる。それでは、なぜ、そもそも非十全な観念が存在するのか? 神の知性が十全な観念をもつのであれば、なぜ非十全な観念を神は創造するのか?『エチカ』第二部では表立って論じられていないが、第一部の次の定理が根拠のようである。

第一部定理16 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じなければならぬ。

「無限に多くのものが無限に多くの仕方で」とあるのだから、「十全な観念」だけでなく無限の段階の無数の「非十全な観念」が生じるのである。さらにスピノザの本質観によれば現実に存在するものはすべて神の能産的本質(所産的本性でもある)に必然的に含まれている。すると人間精神にとって現実に存在するのは、次の公理である。

第二部公理4 我々はある物体(身体)が多様の仕方で刺激されるのを感ずる。

だから、スピノザは人間の身体変状の観念を現実に存在するものとして前提し、そこから非妥当な観念を導出するのだが、それは現実に存在するのだから神の本性に含まれるのである。ただし、その場合の神とは無限知性としてではなく、「人間精神に変状した限りでの」神である。人間精神が神の無限知性の一部でありながら、身体についての十全な観念を持ちえないのはそのためである。

これで身体と観念の関係が見通しよくなったので、次の第三部の定理もなんとか理解しうる。

第三部定理11 すべて我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものの観念は、我々の精神の思惟能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する。

この定理は(その14)で解釈を保留していた定理だが、以上のようなパースペクティブによって、再度考えてみたい。スポーツマンは頭がいい(ホンマか?)という定理ではなさそうである。

この定理は「阻害するものの観念」を一括りにして読むと、あたかも観念が身体の活動能力を阻害しているように勘違いしてしまう。「阻害するもの|の観念」と分断して読むべきである。これは延長属性と思惟属性との間に因果関係を認めない心身並行論から当然のことである。身体に影響を及ぼす「もの」は延長物体であり、観念に影響を及ぼすものは「ものの観念」である。物体は物体同士、観念は観念同士でしか影響し合うことがない。この定理の証明は第二部定理7(心身並行論)を参照せよとあるのだから明らかである。身体の活動能力の増大が原因となって思惟能力が増大するのではない。だからスポーツしても頭はよくならないのである。(たぶん)

そこで「思惟能力」と並行して対比されている「活動能力」、これら各々の用語は何を言おうとしているのかが問題となる。私見ではこの二つの能力の意味を理解するには「十全な観念」の光に照らしてみる必要があると思う。まさに身体の刺激、身体の変状の観念が「非十全な観念」に関係しているからだ。

「思惟能力」を非十全な観念から十全な観念へと至る過程としてみたらどうだろう。

するとそれに並行する「身体の活動能力」とは何か? この点については次の定理が決定的であろう。

第二部定理39系 身体が他の物体と共通のものをより多く有するに従ってその精神は多くのものを妥当に知覚する能力をそれだけ多く有することになる。

この定理からすると、思惟能力の増大と並行する「身体の活動能力」とは「身体が他の物体と共通のものをより多く有する」ことのようである。スピノザはこの共通のものを「A」と名付けているだけだが、このAの観念がまさしく共通概念である。

このAが具体的に何であるかは、スピノザを含めて誰も明らかにしていないようだ。ドゥルーズも福居純も上野修も明らかにしていない。

だから私見を言わせてもらえば、この身体と外部対象とに共通するAを知覚する能力は、超能力(超感覚)かもしれない。つまり相手のことが相手の身になって分かるということだ。人間ばかりでなく対象物の気持も分かる。というか対象物の視点で自分を見返すこともできる、そのような超感覚である。神の知性がもつ「事物の十全な観念」は、そのような超感覚にもとづいてのみ可能であろう。だがそのような身体能力、身体の変状はもはや人間のものではなく、人間と対象物との境界もなくなったものであり、超人間的な活動能力である。もっとも神は無限の仕方で創造するのだから、非十全な観念にも無限の段階がある。てっぺんまで登りつめる必要はない。

一つはっきりしているのは、ここでいう「身体の活動能力」とは運動能力や感覚の鋭さとは別のものだろうということである。なぜなら動物は人間よりも運動能力や聴覚・嗅覚が優れているからである。だからといって動物の思惟能力が人間より優れているわけではない。人間が動物より思惟能力が大きい理由は、他人との共通性を言語によって知覚するからである。もちろん他人と同じ精神を持つわけではないから完全とは言えないが、しかし他の物体(人間)と共通のものを有していることは間違いない。したがって「身体の活動能力」とは、他の物体(他者)と共感する能力であると思う。それは他人だけでなく、自然対象との共感能力でもあり、おそらく芸術家の活動能力に近いのではないかと思う。

だから活動能力が小さくなるとともに心身並行により精神も小さくなり、悲しみの感情を持つのは、例えば腕を失ったから悲しいのではない。世の中には腕を失っても明るさを失わない強い人もいる。もし悲しむとすれば、それは腕を失った自分にこだわり続けて他人への共感という活動能力を失ってしまう悲しみであることが分かる。スピノザの論理ではいかなる障害や病苦があったとしても、その人は実在している限りそれ自体として完全であり、悲しみは存在しないはずである。悲しみが存在するのは、下世話にも言うように、世の不幸をすべて背負っているように見えるからであり、その時、他者への共感能力を失っているからである。逆に死に至るまで他者と自然に対する共感能力を失わないならば、精神が小さくなることはなく、ゆえにいかなる悲しみもなく、ただひたすら歓びがあるだけである。

以上から逆に人間精神の発展として、徐々に共感能力を高めることによって十全な観念に近付いていく過程があり、そこに歓びが伴うことが分かる。その過程をこれからみていきたい。