『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その18)

第三部 感情の起源および本性について No6 ここで私自身、これまで棚上げにしてきた疑問を徹底的に考えてみることにしたい。 疑問というのは、スピノザは一方では人間精神が身体の観念である(第二部定理15証明)と言いつつ、他方では人間精神が身体を認識し…

『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その17)

第三部 感情の起源および本性について No5 定理10 我々の身体の存在を排除する観念は我々の精神の中に存することができない。むしろそうした観念は我々の精神と相反するものである。 私の『エチカ』理解はとても充分なものではなく、とりあえずこのまま全体…

『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その16)

第三部 感情の起源および本性について No4 定理6 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。 定理7 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。 定理8 おのおのの物が自己の有に固執し…

『善の研究』 西田幾多郎著(その7)

第一編 純粋経験第四章 知的直観 この章は第一編の最終章であり、純粋経験の総括のようである。知的直感とは大雑把な印象では純粋経験が分化発展した極致のように思われる。「知的直観」などと言われると、是非自分も身につけたいといふ気になる。そこまで行…

『善の研究』 西田幾多郎著(その6)

前回、私は西田の意志論は言語の創設であるという説を提示したが、西田にとっては意志と知識が同じなのだから、何ら不思議なことではない。西田にとって何かを意志するということは、同時に何かを意味することなのだ。そして通常の意志概念と異なり、意志は…

『善の研究』 西田幾多郎著(その5)

第一編 純粋経験第三章 意志 この章では、意志と知識が同じものだということを純粋経験の統一力によって延々と説明しているだけである、ように見える。もちろん、今回も「意志」の名を借りて純粋経験の本質を探究しているのである。表面的に読むと西田は「統…

『善の研究』 西田幾多郎著(その4)

第一編 純粋経験第二章 思惟 (続き) 関係の意識をも経験の中に入れて考えてみると、思惟の作用も純粋経験の一種であるということができる。(『西田幾多郎全集第1巻』岩波書店刊19頁。以下「同上」とする)またまた糞味噌論理(失礼)と言いたくなるが、お…

『善の研究』 西田幾多郎著(その3)

第一編 純粋経験第二章 思惟 前回、私はシニフィアンとシニフィエを使って西田の純粋経験を読み解いたのだが、類推はここまでである。やはり西田哲学は西洋哲学とは区別される独自性がある。その独自性が、前回の問いである「大なる統一」(記号の統一作用)…

『善の研究』 西田幾多郎著(その2)

第一編 純粋経験第一章 純粋経験 (続き) さて前回(その1)において、私は西田が純粋経験において意識統一と無意識統一力を同根源的に共存させていると述べた。そのことがどういう事態をさすのか、西田の説明を見てみよう。「併し表象的経験であっても、…

『善の研究』 西田幾多郎著(その1)

第一編 純粋経験第一章 純粋経験純粋経験とは「思慮分別を加えない経験そのまま」を「自己の細工を棄てて、事実に従うて知る」ことである。ここで西田は、経験を「知ることである」としている。そこで次の疑問が生じる。純粋経験は広義の感覚与件を含むイメ…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その11)

いよいよ最終章である。この「第7章 立場」もまた、それまで不明瞭だった自己表出・指示表出の概念が明確にされている。後出しもいいところだ。この第6章と第7章こそが本書の思想的中核である。したがって本書は、第6章と第7章を先に読んで、第1章から…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その10)

さて吉本は第5章を書き終えて、あたかもペンを置くように自問する。理論が到達しうるところはすべて達成した。なに、芸術における内容と形式だと、そんなものは過去の遺物で作家にとっても評論家にとっても何の役にも立たないではないか? そこで私もそろそ…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その9)

「土佐日記」「かげろふ日記」「和泉式部日記」などの日記文学について、吉本はそれらが説話物語と異なり表現者の内的世界に主題を集中させることで自己表出性を高めたとしている。そして「源氏物語」は宇津保物語によって統一された説話物語と自己表出性を…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その8)

吉本は記紀歌謡について、土謡詩→叙景詩・叙事詩→抒情詩の知識層による発展に対し、土謡詩→儀式詩への庶民層による発展を並置するのだが、吉本が引用する抒情詩と儀式詩を比較してみると確かに儀式詩(国見歌、酒宴歌、宮廷寿歌など)の方が抒情詩と比べて無…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その7)

第四章の表現転移論は概ね散文(小説)を主な対象として言語芸術が論じられてきたが、第五章は言語芸術の諸ジャンル(詩、物語、劇など)の生成発展が考察対象となっている。これもまたおそろしく深遠な議論が展開されるのだが、吉本は記紀歌謡を対象として…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その6)

私の解釈は、吉本のいう「意識」は自己意識と集合的無意識の複合体だとするものだが、これは私のオリジナルであるから、吉本の本来の考えとはズレているかもしれない。むしろ、無意識こそが資本主義の高度化とともに現実からの疎外として出てきた、まさに19…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その5)

第4章の「表現転移論」については、著者による引用文の読みの深さと見事さにはいつも圧倒されるのだが、昔読んだときと同様、途中で論理がすり替わったような異和感がぬぐえないのである。いわば言語理論にもとづく表出史から始まり、いつのまにか実作者の…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その4)

以上のような問題意識をもって読むと第4章の表現転移論が実に面白い。昔はこの章をよくできた文学史のように読んでいたのだが、やはり「1 表出史の概念」が重要である。サルトルが『弁証法的理性批判』で大騒ぎでやったことを、吉本は言語理論であっさり片…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その3)

さて第3章であるが、この章は吉本の言語理論(第1・2章)と表出史(第4章)を繋ぐ鍵となっている。したがってこの章の理解が不充分であると、言語理論を基礎として文学史を表出史として捉えるという構想全体が曖昧となるのである。だが、まさに本書が難…

『言語にとって美とはないか』 吉本隆明著(その2)

この本のタイトルになっているのだから、「言語にとって美とはなにか」という問いの答を一応確認しておこう。答は「文学」である。だからこの本は言語芸術としての文学論なのである。その根拠は次の引用文である。 言語にとっての美である文学が、マルクスの…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その1)

この本はフロイトの謎めいた引用から始まるのだが、吉本の言語理論にとってフロイトは無関係なのだから、なぜ冒頭でフロイトを引用しなければならなかったのかその理由がさっぱり分からないのである。ただ「発生の機構」というタイトルから類推すると、おそ…

『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その23)

『存在と時間』の中に後期ハイデッガーを読み込むのは慎重でなければならないが、反面、人はそう変るものではないということもある。三つ子の魂ではないが、少なくとも存在観そのものは前期も後期もそう大きく異ならないのではないか。私には「存在」と言え…

『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その22)

<のために>にもとづいて目くばりによって解き分かたれているものそのもの、つまり明示的に理解されたものは、或るものとしての或るものという構造をそなえている。目くばりは<この一定の手もとにあるものはなんであるか>という問いを立て、その問いに対…

『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その21)

前から不思議に思っていたのだが、「第十七節 指示としるし」と「第三十四節 現-存在と語り。ことば」とは離れすぎている。読みようによっては第十七節は記号論、第三十四節は言語論として読めるのだが、あまりにも離れすぎているので、折角の記号論の着想…

『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その20)

内存在という現象のより徹底した考察はたほうあらためてより確実に、世界内存在の構造全体性を現象学的な視界のまえへ引きよせるべきであるというにとどまらない。現存在そのものの根源的な存在を、つまりは気づかいを把捉するための途をも拓くべきなのであ…

『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その19)

「共同現存在」あるいは「共同存在」が出てくるあたりから、だんだん、『存在と時間』の斬新で大胆な印象が薄れてくる。なんかイケてない感じがしてくるのである。論述がもっさりしていて説明にも何にもなっていない。あるいはそれが説明であるとして、さて…

『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その18)

前回触れたとおり<存在者としての私>こそが、現に今、ハイデッガーを読んで分かったようなつもりで書いているこの私に他ならない。これに対し<存在としての私>はまったくつかみどころがなく理解しがたいものである。否、そんなことはない、今ここに存在…

『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その17)

『存在と時間』には随所に後年の転回の萌芽のようなものがみられる。にも関わらず、後年その現象学的方法が完全に放棄されてしまったのは、この書において未だ「存在者」を「存在」と取り違えていたからではないか、そして現象学的方法を適用する限り、その…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その16)

この第一分冊のデカルト批判から現存在の空間性にかけての論述は分かり易く、特に問題を感じない部分である。ハイデッガーのデカルト批判は実体概念まで遡った徹底したものであり、現代においても未だに精神や心理の正体が曖昧としており、それが何であるか…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その15)

はっきり言ってハイデッガーのいう「有意義的に指示する作用」は分かりにくい。昔読んだときもそうだったが、このあたりが第一の難関である。もともと「指示」概念自体が明確でないうえに、さらに「有意義」が加わるのだから、曖昧模糊としてくる。一度きち…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その14)

現存在はそのつどすでにつねに、或る<なにのゆえ>から一定の適所性の<それによって>へと、じぶんを指示している。つまり現存在は、じぶんが存在しているかぎりそのつどすでにつねに、存在者を手もとにあるものとして出会わせているのだ。(412頁本文・熊…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その13)

いま名ざした、たがいに関連しあう連関を理解することで現存在は、現存在そのものが<そのゆえに>存在している、なんらかの-明示的あるいは非明示的につかまれた、また本来的あるいは非本来的な-存在可能から、或る<のために>へと指しむけられている。…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その12)

世界内部的に出会われるものが、それにもとづいて開けわたされる結果になるものを先だって開示するとは、現存在が、存在者としてすでにつねにかかわっている世界を理解していることにほかならない。(411頁本文) 分かるようで、よう分からん文章である。「…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その11)

手もとにある或るものによってどのような適所性がえられるかは、そのつど適所全体性にもとづいてあらかじめ素描されているのである。(401頁本文) 日常性と常識は相伴うものであると常識的に思うのだが、ハイデッガーの非常識なところは日常性と常識が相反…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その10)

指示は存在論的に、しるしに対する基礎となるはずなのだから、したがって指示そのものは、それ自身しるしとしては把握されることができない。指示が手もとにあるありかたそのものを構成するのであるから、指示は手もとにあるものが存在的に規定されたありか…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その9)

ハイデッガーを理解するには、くり返し何度も立ち返って確認しながら進まなければならない。前代未聞の論考を、その初発の驚きを保持しつつ読み進めなければならない。 あたかもカール・バルトがローマ書から発見の喜びを見出したように。「第十七節 指示と…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その8)

「世界」が「閃く」ことがありうるなら、世界はそもそも「開示されて」いなければならない。(367頁注解) しかしそれにしても『存在と時間』は悪文のてんこ盛りである。熊野訳はずいぶん読み易いとはいえ、元々の悪文は直しようがないだろう。例えば「世界…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その7)

『存在と時間』は、いまだかつて誰も問わなかったことを初めて問うているのだから、そんなに簡単に読み過ごせるものではない。『存在と時間』を読み過ごすとは、例えば、世界がなぜ存在するのかということについて道具存在の指示連関から世界適合性が閃いて…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その6)

現存在は、当の存在体制にしたがって、現存在自身ではなく、現存在が、とはいえ自分の世界の「内部で」出会うような、その存在者と、当の存在者の存在の側から、自分自身を-ということはつまりまたみずからの世界内存在をも-存在論的にさしあたり理解して…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その5)

すでに論じておいた現存在の「存在性格」が、以下の探究において「構造的に具体化strukturale Konkretion」される。(265頁注解) ここで「構造的に具体化される」のは「世界内存在」のことであるが、これは現存在の存在ではなく、現存在そのものの別の表現…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その4)

現存在の存在の実存論的な意味は、気づかいなのである。(222頁本文) ハイデッガーは現存在の分析を始めるにあたり、現存在が「問いかけられているもの-存在者」であることを念押ししている。(221頁冒頭)そこで存在への問いの形式的構造を参照してみると…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その3)

人によってはこの熊野訳の注解は本文の要約であり新味はないと思うかもしれない。しかしそれは受身の読書であって、訳者があちらで指摘し、こちらで指摘していることを繋いでみると独自の主張が浮かび上がってくることがある。それに(私はそうは思わないが…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その2)

『存在と時間』を読んでいると、一体、存在についてどこまでが解明され、何が解明されずに終わったのかという疑問が叢雲のように湧きあがるのである。それにしては「問いもとめられるもの」としての「存在の意味」が時間性であると、初めからあっさり示され…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その1)

およそ哲学に関心のある人なら『存在と時間』は既読であることを前提として、ここでは熊野訳を読んで初めて気がついたことを中心に触れたい。ハイデッガーがなぜギリシャの古代存在論におけるロゴス(レゲイン)に注目したのか、その理由について本書では次…

『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その15)

第三部 感情の起源および本性について No3 定理5 物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言いかえればそうした物は同じ主体の中に在ることができない。 この定理は読めば意味は分かる。私が気になるのは、それは最初から気になっていた…

『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その14)

第三部 感情の起源および本性について No2 定理4 いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。 スピノザの論理からすると人間精神は原因なくして自ら消滅を望むことはありえないのである。自殺者から自殺に至る原因をすべて取り除…

『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その13)

第三部 感情の起源および本性について No1 まだ第二部の理解は充分とは言えないが、とにかく『エチカ』全体を読み通してから、また再度考え直してみたい。このため第三部へ進むことにする。精神はさておき、少なくとも私には感情があることは確かだ。 定理1…

『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その12)

第二部 精神の本性および起源について No10 しかし、よく考えてみると私は概念というものについてあまり本気で考えたことがない。例えば「神」とか「人間」という概念については、まあ、いろんな人がいろんなことを言っているよね、という感じで、自分自身が…

『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その11)

第二部 精神の本性および起源について No9 さていよいよ「共通概念」であるが、その名称から受ける印象と異なり、私が通常考えている「概念」とはまったく別物のようだ。共通概念は人間が「非十全な認識」から「十全な認識」へ至るうえで不可欠のものである…

『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その10)

第二部 精神の本性および起源について No8 この第二部を読んでいるうちに、次第にスピノザの言う「人間精神」が謎めいてくるのを感じる。人間精神は身体を構成する諸個体の観念によって構成されるのだが、しかし、人間精神は自分を構成する諸個体の観念を認…