ハイデッガー

『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その23)

『存在と時間』の中に後期ハイデッガーを読み込むのは慎重でなければならないが、反面、人はそう変るものではないということもある。三つ子の魂ではないが、少なくとも存在観そのものは前期も後期もそう大きく異ならないのではないか。私には「存在」と言え…

『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その22)

<のために>にもとづいて目くばりによって解き分かたれているものそのもの、つまり明示的に理解されたものは、或るものとしての或るものという構造をそなえている。目くばりは<この一定の手もとにあるものはなんであるか>という問いを立て、その問いに対…

『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その21)

前から不思議に思っていたのだが、「第十七節 指示としるし」と「第三十四節 現-存在と語り。ことば」とは離れすぎている。読みようによっては第十七節は記号論、第三十四節は言語論として読めるのだが、あまりにも離れすぎているので、折角の記号論の着想…

『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その20)

内存在という現象のより徹底した考察はたほうあらためてより確実に、世界内存在の構造全体性を現象学的な視界のまえへ引きよせるべきであるというにとどまらない。現存在そのものの根源的な存在を、つまりは気づかいを把捉するための途をも拓くべきなのであ…

『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その19)

「共同現存在」あるいは「共同存在」が出てくるあたりから、だんだん、『存在と時間』の斬新で大胆な印象が薄れてくる。なんかイケてない感じがしてくるのである。論述がもっさりしていて説明にも何にもなっていない。あるいはそれが説明であるとして、さて…

『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その18)

前回触れたとおり<存在者としての私>こそが、現に今、ハイデッガーを読んで分かったようなつもりで書いているこの私に他ならない。これに対し<存在としての私>はまったくつかみどころがなく理解しがたいものである。否、そんなことはない、今ここに存在…

『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その17)

『存在と時間』には随所に後年の転回の萌芽のようなものがみられる。にも関わらず、後年その現象学的方法が完全に放棄されてしまったのは、この書において未だ「存在者」を「存在」と取り違えていたからではないか、そして現象学的方法を適用する限り、その…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その16)

この第一分冊のデカルト批判から現存在の空間性にかけての論述は分かり易く、特に問題を感じない部分である。ハイデッガーのデカルト批判は実体概念まで遡った徹底したものであり、現代においても未だに精神や心理の正体が曖昧としており、それが何であるか…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その15)

はっきり言ってハイデッガーのいう「有意義的に指示する作用」は分かりにくい。昔読んだときもそうだったが、このあたりが第一の難関である。もともと「指示」概念自体が明確でないうえに、さらに「有意義」が加わるのだから、曖昧模糊としてくる。一度きち…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その14)

現存在はそのつどすでにつねに、或る<なにのゆえ>から一定の適所性の<それによって>へと、じぶんを指示している。つまり現存在は、じぶんが存在しているかぎりそのつどすでにつねに、存在者を手もとにあるものとして出会わせているのだ。(412頁本文・熊…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その13)

いま名ざした、たがいに関連しあう連関を理解することで現存在は、現存在そのものが<そのゆえに>存在している、なんらかの-明示的あるいは非明示的につかまれた、また本来的あるいは非本来的な-存在可能から、或る<のために>へと指しむけられている。…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その12)

世界内部的に出会われるものが、それにもとづいて開けわたされる結果になるものを先だって開示するとは、現存在が、存在者としてすでにつねにかかわっている世界を理解していることにほかならない。(411頁本文) 分かるようで、よう分からん文章である。「…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その11)

手もとにある或るものによってどのような適所性がえられるかは、そのつど適所全体性にもとづいてあらかじめ素描されているのである。(401頁本文) 日常性と常識は相伴うものであると常識的に思うのだが、ハイデッガーの非常識なところは日常性と常識が相反…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その10)

指示は存在論的に、しるしに対する基礎となるはずなのだから、したがって指示そのものは、それ自身しるしとしては把握されることができない。指示が手もとにあるありかたそのものを構成するのであるから、指示は手もとにあるものが存在的に規定されたありか…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その9)

ハイデッガーを理解するには、くり返し何度も立ち返って確認しながら進まなければならない。前代未聞の論考を、その初発の驚きを保持しつつ読み進めなければならない。 あたかもカール・バルトがローマ書から発見の喜びを見出したように。「第十七節 指示と…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その8)

「世界」が「閃く」ことがありうるなら、世界はそもそも「開示されて」いなければならない。(367頁注解) しかしそれにしても『存在と時間』は悪文のてんこ盛りである。熊野訳はずいぶん読み易いとはいえ、元々の悪文は直しようがないだろう。例えば「世界…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その7)

『存在と時間』は、いまだかつて誰も問わなかったことを初めて問うているのだから、そんなに簡単に読み過ごせるものではない。『存在と時間』を読み過ごすとは、例えば、世界がなぜ存在するのかということについて道具存在の指示連関から世界適合性が閃いて…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その6)

現存在は、当の存在体制にしたがって、現存在自身ではなく、現存在が、とはいえ自分の世界の「内部で」出会うような、その存在者と、当の存在者の存在の側から、自分自身を-ということはつまりまたみずからの世界内存在をも-存在論的にさしあたり理解して…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その5)

すでに論じておいた現存在の「存在性格」が、以下の探究において「構造的に具体化strukturale Konkretion」される。(265頁注解) ここで「構造的に具体化される」のは「世界内存在」のことであるが、これは現存在の存在ではなく、現存在そのものの別の表現…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その4)

現存在の存在の実存論的な意味は、気づかいなのである。(222頁本文) ハイデッガーは現存在の分析を始めるにあたり、現存在が「問いかけられているもの-存在者」であることを念押ししている。(221頁冒頭)そこで存在への問いの形式的構造を参照してみると…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その3)

人によってはこの熊野訳の注解は本文の要約であり新味はないと思うかもしれない。しかしそれは受身の読書であって、訳者があちらで指摘し、こちらで指摘していることを繋いでみると独自の主張が浮かび上がってくることがある。それに(私はそうは思わないが…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その2)

『存在と時間』を読んでいると、一体、存在についてどこまでが解明され、何が解明されずに終わったのかという疑問が叢雲のように湧きあがるのである。それにしては「問いもとめられるもの」としての「存在の意味」が時間性であると、初めからあっさり示され…

『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その1)

およそ哲学に関心のある人なら『存在と時間』は既読であることを前提として、ここでは熊野訳を読んで初めて気がついたことを中心に触れたい。ハイデッガーがなぜギリシャの古代存在論におけるロゴス(レゲイン)に注目したのか、その理由について本書では次…