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吉本隆明

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その11)

いよいよ最終章である。この「第7章 立場」もまた、それまで不明瞭だった自己表出・指示表出の概念が明確にされている。後出しもいいところだ。この第6章と第7章こそが本書の思想的中核である。したがって本書は、第6章と第7章を先に読んで、第1章から…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その10)

さて吉本は第5章を書き終えて、あたかもペンを置くように自問する。理論が到達しうるところはすべて達成した。なに、芸術における内容と形式だと、そんなものは過去の遺物で作家にとっても評論家にとっても何の役にも立たないではないか? そこで私もそろそ…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その9)

「土佐日記」「かげろふ日記」「和泉式部日記」などの日記文学について、吉本はそれらが説話物語と異なり表現者の内的世界に主題を集中させることで自己表出性を高めたとしている。そして「源氏物語」は宇津保物語によって統一された説話物語と自己表出性を…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その8)

吉本は記紀歌謡について、土謡詩→叙景詩・叙事詩→抒情詩の知識層による発展に対し、土謡詩→儀式詩への庶民層による発展を並置するのだが、吉本が引用する抒情詩と儀式詩を比較してみると確かに儀式詩(国見歌、酒宴歌、宮廷寿歌など)の方が抒情詩と比べて無…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その7)

第四章の表現転移論は概ね散文(小説)を主な対象として言語芸術が論じられてきたが、第五章は言語芸術の諸ジャンル(詩、物語、劇など)の生成発展が考察対象となっている。これもまたおそろしく深遠な議論が展開されるのだが、吉本は記紀歌謡を対象として…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その6)

私の解釈は、吉本のいう「意識」は自己意識と集合的無意識の複合体だとするものだが、これは私のオリジナルであるから、吉本の本来の考えとはズレているかもしれない。むしろ、無意識こそが資本主義の高度化とともに現実からの疎外として出てきた、まさに19…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その5)

第4章の「表現転移論」については、著者による引用文の読みの深さと見事さにはいつも圧倒されるのだが、昔読んだときと同様、途中で論理がすり替わったような異和感がぬぐえないのである。いわば言語理論にもとづく表出史から始まり、いつのまにか実作者の…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その4)

以上のような問題意識をもって読むと第4章の表現転移論が実に面白い。昔はこの章をよくできた文学史のように読んでいたのだが、やはり「1 表出史の概念」が重要である。サルトルが『弁証法的理性批判』で大騒ぎでやったことを、吉本は言語理論であっさり片…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その3)

さて第3章であるが、この章は吉本の言語理論(第1・2章)と表出史(第4章)を繋ぐ鍵となっている。したがってこの章の理解が不充分であると、言語理論を基礎として文学史を表出史として捉えるという構想全体が曖昧となるのである。だが、まさに本書が難…

『言語にとって美とはないか』 吉本隆明著(その2)

この本のタイトルになっているのだから、「言語にとって美とはなにか」という問いの答を一応確認しておこう。答は「文学」である。だからこの本は言語芸術としての文学論なのである。その根拠は次の引用文である。 言語にとっての美である文学が、マルクスの…

『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その1)

この本はフロイトの謎めいた引用から始まるのだが、吉本の言語理論にとってフロイトは無関係なのだから、なぜ冒頭でフロイトを引用しなければならなかったのかその理由がさっぱり分からないのである。ただ「発生の機構」というタイトルから類推すると、おそ…