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西田幾多郎

『善の研究』 西田幾多郎著(その7)

第一編 純粋経験第四章 知的直観 この章は第一編の最終章であり、純粋経験の総括のようである。知的直感とは大雑把な印象では純粋経験が分化発展した極致のように思われる。「知的直観」などと言われると、是非自分も身につけたいといふ気になる。そこまで行…

『善の研究』 西田幾多郎著(その6)

前回、私は西田の意志論は言語の創設であるという説を提示したが、西田にとっては意志と知識が同じなのだから、何ら不思議なことではない。西田にとって何かを意志するということは、同時に何かを意味することなのだ。そして通常の意志概念と異なり、意志は…

『善の研究』 西田幾多郎著(その5)

第一編 純粋経験第三章 意志 この章では、意志と知識が同じものだということを純粋経験の統一力によって延々と説明しているだけである、ように見える。もちろん、今回も「意志」の名を借りて純粋経験の本質を探究しているのである。表面的に読むと西田は「統…

『善の研究』 西田幾多郎著(その4)

第一編 純粋経験第二章 思惟 (続き) 関係の意識をも経験の中に入れて考えてみると、思惟の作用も純粋経験の一種であるということができる。(『西田幾多郎全集第1巻』岩波書店刊19頁。以下「同上」とする)またまた糞味噌論理(失礼)と言いたくなるが、お…

『善の研究』 西田幾多郎著(その3)

第一編 純粋経験第二章 思惟 前回、私はシニフィアンとシニフィエを使って西田の純粋経験を読み解いたのだが、類推はここまでである。やはり西田哲学は西洋哲学とは区別される独自性がある。その独自性が、前回の問いである「大なる統一」(記号の統一作用)…

『善の研究』 西田幾多郎著(その2)

第一編 純粋経験第一章 純粋経験 (続き) さて前回(その1)において、私は西田が純粋経験において意識統一と無意識統一力を同根源的に共存させていると述べた。そのことがどういう事態をさすのか、西田の説明を見てみよう。「併し表象的経験であっても、…

『善の研究』 西田幾多郎著(その1)

第一編 純粋経験第一章 純粋経験純粋経験とは「思慮分別を加えない経験そのまま」を「自己の細工を棄てて、事実に従うて知る」ことである。ここで西田は、経験を「知ることである」としている。そこで次の疑問が生じる。純粋経験は広義の感覚与件を含むイメ…