『純粋理性批判』 カント著 高峯一愚訳(その1)

これからカントを順次読んでいきたいと思う。参照本としてkindle版を選んだ。これは河出書房新社の「世界の大思想」シリーズの一つで、高峯一愚訳である。
kindle版は用語が検索できるので便利であるが、反面頁数がなく、位置数が示されている。このため、引用に当たっては頁数ではなく位置数を使用する。
中山元訳は詳細な説明があり魅力的なのだが、「悟性」を「知性」としたり、「構想力」を「想像力」と改訳しており、自分で納得するにはよいが、人に説明したり、他のカント研究を参照したりする際のカント・リテラシーに難があるように思われる。例えばカントは構想力を盲目的機能としているが、「想像力は盲目的機能である」というと意味不明になる。とはいえ価値のある名訳であることは確かなので大いに参考とする。
カントを読み始めてまず感じるのは、なぜカントは感性・悟性・理性の区別を立て、さらに感性と悟性を媒介する構想力まで持ち出すのかという疑問である。ヘーゲルは悟性と理性の区別を別の文脈で踏襲しているが、現代哲学においてはこのような区別は踏襲されていないので、奇異に思えるのである。
また、『純粋理性批判』を理解するだけでも大変なのに、『実践理性批判』と『判断力批判』と三つも批判がある。一つだけでいいのに・・・と思うのは私だけだろうか。なぜ三つも批判する必要があったのか、についても考えていきたい。

第一版序
昔の本は『資本論』もそうだが、やたら序文が長い。しかも詳しい説明ではないので、一方的な御託宣として受け入れるしかない。私としては著者がなぜそう考えるのか、とりあえず動機だけを確認しておくことにする。
カントが「純粋」reinenにこだわった動機は、理性以外のすべてのもの(経験とか神など)からの理性の自律を要請していたからであると思われる。
その時代背景として序文にあるように、宗教と立法の権威喪失がある。なぜそうなったのかと言えばカントの見立てでは、「宗教はその神聖性によって、立法はその尊厳性によって」(位置296)つまり自分自身以外の外的権威に守られていたため理性による批判への免疫力がなかったからである。自分自身以外のものに依存する力は弱いというわけである。
逆に理性が強力であるのは、数学や自然科学の勃興に見られるように、理性が自律して経験(現象)を理性に従属させているからである。
この没落と勃興の二つの動向を見て、カントは理性能力が妄想に陥ることなく健全に発展していくためには、外的権威や経験からの理性の自律が必要だと考えたように思われる。
この序文の最初の部分を一読すると、あたかもカントは経験を超えて理性を使用することの限界を指摘しているように思えるのだが、そうではない。カントによれば理性が経験を超えるのは理性の本性である。ということは理性は元々、超経験的能力なのだ。カントが指摘しているのは理性能力の限界であって、経験を超えることが限界なのではない。
形而上学を批判しているのは、理性が自律的ではなく理性以外の他の権威(神)に従っているからである。
よって、カントは理性の自律として、理性自体の法廷を求めるのだが、それが純粋理性批判というわけである。外的権威や経験から自律して、自己検証するということであり、それが「純粋」という意味である。
この序文では理性が「経験の過程において必ず使用され」(位置235)とあるのであたかも理性が経験に基づく思考のように誤解するのだが、カント用語では経験の過程で「必ず」使用されるのは理性ではなく悟性である。したがってこの文の意味は、経験の過程において悟性判断に随伴して理性が使用されるということであろう。それにしても「必ず」とは誤解を招きやすい。
翻訳者は訳注でカントは序文で、「理性という語を非常に広い意味で用い」ているが、「やがて感性や悟性と並立して、人間の知る能力の一部門を意味する狭い意味に限定されてゆく」と丁寧な説明をしている。つまり経験(現象)に基づく判断は悟性が行うが、理性は経験を超えているのである。

第二版序
さて「自律」と口でいうのはたやすいが、理性の自律をどうやって確保するかとなると難しい。カントは経験とは異なる理性の領域(先験的領域)を確保することで理性の自律を図ったようだ。したがって問題は、そのような領域が本当に存在するのか、ということになる。
もし理性が経験に従うのであればそのような領域は存在しない、しかし経験が理性に従う領域があるとすれば、それが先験的領域になる。
その領域を弁別する標識として「必然性」「普遍性」がある。この辺の議論はよく知られたところだから省略する。
この序文では御託宣であるとしても、カントの考える「認識」がどういうものであるか、かなり詳細に説明されていて、そこが興味深い。
ここでカントは初めて「表象」Vorstellungという言葉を使用するのだが、それがなぜ必要なのかよく分からない。本論で分かるようになるのかもしれない。
カントの認識論は、概念を対象に当てはめるというような単純なものではない。
「表象としてのこれらの直観を、対象としての或るものに関係せしめ、かつこの対象を、表象によって限定しなければならないから、わたくしがこの限定をそれによって成しとげるところの諸概念が、対象に従うと想定する」(位置663)というような複雑なことを言っている。中山訳を参照してもこの複雑さは減少しない。
例えば目の前に置かれた紙に三角形の図が描いてあるとする。カントが言っているのは、その図形に三角形の概念を当てはめるということではない。
心の内で思い描いた三角形の表象がその対象と一致していることを三角形の概念を利用して確かめるということである。あるいは概念が表象と対象との一致(限定)を可能にしているということである。
つまり、目の前の図形に、内角定理などで定義された三角形の抽象的概念を直接適用することはできない。だから図形を限定するものは概念でなく表象だというのである。
私などは三角形の概念といえばすぐに図形表象(イメージ)を思い浮かべるし、図形表象と目の前の図を区別することもない。だからカントの分析が煩瑣にみえる。
しかし、カントの認識論は、イメージなき概念-表象-対象の三項で成り立っているようだ。したがって、この表象がどこからやってきて、誰が創造したのか、気になるのである。
先走って言えば、悟性ではなく構想力が表象を創造したことになるのだが、本論で確認していこう。
もうひとつ興味深いのは理性を理論的認識と実践的認識との二つに分けていることである。
理論的認識とは、「対象と概念を単に限定する」ことである。(「限定する」とは分かりにくいが、私は今のところ、これを一致と受けとめている。つまり対象と概念の一致である)
実践的認識とは「対象を現実化する」ことである。
「対象を現実化する」とは面妖なことを言うと思うであろう。私もそう思った。
その真意は分かりかねるが、今のところ次のように解している。
ここでいう「対象」をもし経験対象であるとすると、超経験的な理性が経験対象を現実化するということになり、不可能なことである。よって、この対象は超経験的対象ではないかと思われる。例えば自由という概念は、自然的因果関係では説明不可能なので、理論的認識ではなく、超経験的な実践的認識の対象となり、それを現実化するということは、自由の概念に対応した経験対象の類比を求めることを意味しているように思われる。すると実践理性が道徳臭くなる理由が分かる。
もっともカントのために弁護すれば、一部のポストモダンの連中が断罪しているように、カントは天下り的な道徳に服従せよと言っているのではない。それはカントが唾棄している外的権威への屈従である。カントが言っているのは理性が自ら創設した道徳に自ら服従せよということであり、理性の自律が必要ということである。
問題はなぜ、理論的認識と実践的認識の二つに分かれるのかということである。
それは理性能力が本性として経験を超えているからだ。理論的認識である対象と概念の一致とは、経験的領域の問題である。この領域では、もっぱら悟性が中心となり、理性はその悟性に従属することになる。そして経験領域では自然因果律が支配するので、自由の概念は思考不可能である。
しかし、実践的認識は超経験的領域(自由の概念など)の問題である。そこでは経験(自然的因果律)に依存することなく、理性が自らその領域を創造することになる。自由とは理性の自己創造である。よってここでは超経験的能力である理性自らが中心となり、悟性が経験領域における自由の類比を探すという従属的役割を果たすのである。憲法で保障された国民の自由などは、まさしく経験領域における自由概念の類比であって、自然因果律にもとづく理論的認識では自由はありえないのであり、実践的認識が要請される理由がそこにある。
どうも「実践」というと何か具体的行動のようなものを連想してしまうのであるが、カントのいう理性の実践とは理性による超経験的創造である。