『純粋理性批判』 カント著 高峯一愚訳(その2)

緒言
これもまた長い緒言(中山訳では序論)であるが、ここでのカントの主張は概ね、①カントの認識観、②アプリオリな総合判断、③純粋理性批判の領域の三つに区分できると思う。順次検討していくこととする。
①カントの認識観
哲学は生きている現実を考察の出発点としているから、ある哲学者の思想を理解しようとするとき、その哲学者が出発点とする現実がどういうものか分かっている必要がある。
現代思想が難解であるにも関わらず何らかの親しみを感じ無関心でいられないのは、生きている世界を共有しているからだと思われる。
したがってカントの議論に分かり難いところがあるのは、カントが私とは異なる世界を見ているからかもしれない。どこがどう違うかはっきり分からないのだが、その議論の運びに何か違和感を感じるのである。
例えば私にとって経験とは、何も考えずボーッとしている時間と何かを考えている時間の二種類があるのだが、カントにとって経験とはすべて認識であるようだ。
「経験は疑いもなく、われわれの悟性が感性的感覚という素材を加工してつくり出す、最初の所産である。まさにこのことによって経験は最初にわれわれに知識を与えるものであり、かつ経験の進みゆくにつれて知識は無尽蔵に与えられる」(高峯訳kindle版位置1190)
カントにとって経験とはすべて能動的なものであり受動的なものでないらしい。花を見ているときも、これは花であると悟性により能動的に判断しなければ、それは「経験」ではないのだ。感性的感覚それ自体は経験ではないのである。つまりカントは経験それ自体などというものは認めていない。この経験の受動性の排除は徹底していて、経験もまた時間と空間という先験的形式において成り立つというように、カント的世界において100%受動的な経験は存在しないのである。
私には残念ながら「経験の進みゆくにつれて知識は無尽蔵に与えられる」という実感はまったくない。ということはカントに言わせれば、私には経験が乏しいということであろう。
これは私の妄想かもしれないが、カントの認識観はファロス的というか、巨大なペニス願望が潜んでいるような気がする。象徴言語としてのペニスによる世界構築の意志を感じるからである。これに対し、そんな世界構築など錯覚であるとするニーチェの認識観は女性的であり、その影響を受けているフーコードゥルーズもどこか女性的である。だからニーチェは真のドイツ人なりや?という疑問は残るのである。
このようにカントの認識観は能動的であるが、そのことが感性と悟性を区分するやり方に繋がるのかもしれない。つまり感性は受け取り、悟性が受けとったものを比較対照して認識を生み出すというわけである。
だが、ここで違和感を覚えるのは、カントがそのようにあたかも自明のものとして認識のプロセスを説明したあとで、アプリオリな認識の可能性を議論することである。
これは議論の進め方としてフェアでないという感じがする。そもそも冒頭で説明する感性と悟性の認識プロセス自体が、既にアプリオリな認識を前提としているからだ。
つまり、悟性が感性から自律している限り、アプリオリな認識が生じるのは当然であるということだ。これは逆に言えるかもしれない。アプリオリな認識が存在するのであれば、悟性が感性に対して自律しているという認識プロセスが必然的となる。ここではカントの認識観がそういうものだと確認して次に進む。
アプリオリな総合判断
これも分かり難い議論である。できればなしで済ませませんか?といいたくなるのだが、カントによると形而上学の根本課題がアプリオリな総合判断ということであるから、回避できないだろう。
カントの主張が分かり難いのは、カントが指摘する総合判断の事例がすべて今日では分析判断とみなされているからである。例えば「物体に重さがある」という命題をカントは総合判断の例としているが、それは物体概念には空間が含まれているが、重さは含まれていないからというのである。しかし、現代物理学では重力は空間の曲率だから、重さは物体概念にすでに含まれており分析判断になる。また数学を総合判断とする主張もラッセルによって批判されている。
これについて柄谷行人ラッセルの論理実証主義自体が破綻しているのであり、「ある公理体系の無矛盾性を証明する一つの方法は、直観的モデルに訴えることである」(『トランスクリティーク』93頁)ことや、「後期ウィトゲンシュタインは数学を「発明」の多様な束とみなした」(同上95頁)ことなどを根拠としてカントの時代に先立つ先見性を認めているようだが、どうも議論が今一つすっきりしない。
すっきりしないが、柄谷行人の指摘はとてつもなく重要なので詳しく検討してみよう。
カントが総合判断とする数学の例は、「7+5=12」である。
カントによると「7+5」をいくら分析してみても「12」が出て来ないから総合判断だというのである。
公理主義の立場に立つラッセルは「7+5」から「12」が演繹されるから分析判断だとしてカントを批判している。
とすると一見カントは数学でいう直観主義の立場に立っているように見えるのだが、そうではないというのが柄谷行人の見解のようである。つまり柄谷行人にとって「アプリオリな総合判断」とは公理主義と直観主義を媒介するもののようである。その「公理体系の無矛盾性」を「直観的モデル」が保証するというのであるから、カントの総合判断は単純な直観主義ではない。超経験の世界を直観的経験が支えているのである。
こうしてみると「アプリオリな総合判断」という言葉自体が矛盾している。アプリオリというのは超経験であり、総合判断は経験である。だからこれは超越的な経験ということになる。私としてはこれは矛盾ではなく、カントが「経験」概念を拡張したのだと考える。つまりもしも「経験」という言葉で、新たな発見と創造を意味するものであるとするならば、「アプリオリな総合判断」とは超経験領域における発見であり創造であり、したがってそれは超越的な経験にほかならない。
純粋理性批判の領域
こうした「経験」概念の拡張は、純粋理性批判の領域確定についても逆立ちした関係となって現れる。
カントによる純粋理性批判の領域とは、「このような学(純粋理性の批判)を区分するにあたって最も重要な目標は、何らか経験的なものをその中に含むようないかなる概念も入りこんではならないこと、換言すれば、先天的認識がまったく純粋であることである」(位置1569)というような領域である。
こうして純粋理性批判から経験的概念が除外され、「快不快、欲望、傾向性など、総じて経験に起源をもつ概念」は実践理性批判判断力批判の対象となるのである。
だが、これはおかしいとは思わないか? No1で前述したように、カントの体系ではむしろ純粋理性批判こそが経験領域を対象にしており、実践理性批判判断力批判は理性の超越的使用を対象としているからである。
このことは、純粋理性批判が感性論をもって始まっていることからも窺われる。確かにそれは超越論的議論であるが、それにしても経験領域を対象としていることに変わりはない。
したがって、カントが「何らか経験的なものをその中に含むようないかなる概念も入りこんではならない」と言っているからといって、純粋理性批判が超経験的領域を扱うと即断してはならない。カントの純粋理性批判はあくまで経験領域を対象として超越論的探究を行っているのである。この経験領域を対象とするという制約をはずしてしまうと、逆に純粋理性は妄想になるというのがカントの主要な主張である。このことは柄谷行人の指摘による直観的モデルが超越世界を支えるという見解と一致している。