『純粋理性批判』 カント著 高峯一愚訳(その3)

 

第一部 先験的感性論
専門の哲学者はカントありきで論を進めるのだが、私は素人だから直感を大事にしたい。
そもそも「先験的感性論」というタイトル自体が相当アヤしいのである。
現代人は概ね同じような意識観をもっている。つまり主体があって対象がある。対象の存在を判断保留するか否かは別として、主観と客観、ノエシスノエマ、即自と対自、我と汝・・・と様々に変奏されているが、何らかの二項関係として主体が対象を捉えていることで共通している。ところがカントの場合は主体と対象は直接的に関係しないのである。
主体と対象の間には、表象-概念-認識、の系列的な中間対象が立ちふさがり、これらの諸対象は、感性-悟性-理性、という系列的な諸能力に対応している。まるで哲学とは分類することだと言わんばかりであるが、諸能力に対応した中間的諸対象という二つの並行する系列によって主体と対象は隔てられているのである。これはあらゆる哲学の中でカントのみに見られる特異な点である。
問題はなぜカントが分類に凝るのかであるが、それは前回述べたように、宗教や王権などに従属した理性が没落しつつある時代において、そうした外的権威に縛られない理性の自律を確保することに動機があったのであろう。あたかも戦前の皇室のように周囲に貴族という藩屏を築いて防御するように、外的対象に振り回されないように理性の周囲に中間的諸対象の垣根を作ったのである。
例えば表象と認識、それらと関係する感性能力と理性能力、この二つを区別しうるであろうか? もし区別しうるのであれば、表象とは異なる次元で認識が存在することになる。すると認識と関係する理性能力は表象に拘束されない次元として超経験的領域をもつことになる。つまりカント的分類を受け容れることは、既に理性の自律を受け容れることになるのである。するとカント的理性は自閉症であろうか?  
私の印象では逆である。カントは相手の存在を認めたうえで、なおかつ相手に振り回されない自律の人というイメージである。この印象が合っているかどうかはこれから確認したいが、少なくともそう捉えた方が生産的である。
純粋理性批判』を読んだおかげで対象の認識が深まりました、などという話は寡聞にして知らない。ではなぜ読むのか? それは理性のメカニズムを解明して対象に振り回されない領域が理性にあることを確認することで、怖れずに対象と付き合うためである。どちらかといえば恐怖と傲慢によって対象を否定してしまう傾向がある現代において、カント哲学は再評価に値するものと思う。

以上は乱暴な図式であり、カントによる諸能力と中間的諸対象との関係はもっと複雑に絡み合っているのだが、少なくとも「感性」を理性と切り離して独立に論じることの動機は理解できる。そして現象、表象、感性、悟性・・・という煩瑣な分類がそれなりに整然とした系列関係にあることの見通しも立つ。
分類された系列が一見複雑な関係になるのは、カントが主体概念を曖昧にしているからである。「先験的感性論」の冒頭の諸能力と中間的諸対象の相互関係は複雑かつ曖昧であり、いくら図解を試みてもうまくいかない。だがあえて図示すると次のようになる。

 

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カントの主体概念が曖昧であるというのは、本文をいくら読んでも「認識」と「直観」の位置付けが分からないからである。冒頭の書き出しはあたかも「認識」が主体のような書きぶりであるが、とりあえず図では暫定的に点線で示しておいた。
だがこの1図から3図によって、当面、対象、現象、表象、感覚などと諸能力の位置関係が明瞭になると思う。
長い間、私は対象から現象が生じるものと誤解していたが、よく読むと対象と現象の違いは直観のレベルの違いであって、感性の位相を固定するならば、対象と現象は同一の位置にあることが分かる。
そして経験的直観においては、感性能力が産出する表象に対応するものが感覚であり、純粋直観においては「純粋像」を産出するのである。そしてこの「純粋像」(これは中山元訳の用語だが、高峯訳では純粋な表象)を産出するのが「先験的感性」という関係になる。
分かり易くするため、第1~3図と分解したが、カントの説明ではこの3つの図は重畳的に一体となっている。
カントが先験的感性を導出するやりかたは、まず第1図で悟性により産出された概念を除去し、次に第2図で感性により産出された感覚を除去すると、残りの第3図で純粋像が残るのだが、それが現象の形式である空間と時間ということである。
すると主体はどこにあるのか?
ここでカントは「心」(das Gemüt)という言葉を使用している。

対象がわれわれの心を何らかの仕方で触発する(高峯訳kindle版位置1657)
現象の形式は、感覚にとってはすべて心の中に先天的にあらかじめ存する(同上位置1673)
感性の単なる形式として心の中に生ずるものなのである。(位置1681)

カントが冒頭で「認識」を主語として書くとき、それはこの図全体を包括しているように見える。だが、この図を包括しているのは実は「心」なのである。そして「対象」に向かっている主体、あるいは「対象」から触発されている主体は「心」であり、感性・悟性・理性は主体である「心」の諸能力なのである。
「先験的感性」がアヤしいのは、そのような感性が本当にあるのか?と疑問に思うからである。このとき、アヤしいと思う原因は感性能力の主体を孤立させているからである。感性的主体が超感性的な世界へ踏みいるのは確かに矛盾である。
だが感性的能力と理性的能力が同一の主体である「心」に帰属するのであれば、経験を超えた「超越論的な感性」(中山元訳)が存在してもおかしくはない。感性と理性は繋がっているのだから。つまり理性的主体が感性的主体を省察しているのだ。(ヘーゲルは同一の主体として感性が悟性、理性へと弁証法的に発展するとしている。だが絶対精神まで発展すると主体と対象が一致してしまうのである)
カントは思考実験として「対象」から概念と感覚を除去してみよと言う。だが誰が除去するのか? 感性は対象を受容するだけであるから、主体である「心」が理性能力によって除去しているのだ。
このとき、「感性」は経験世界を超越しているのではない、超越論とは「感性」が存在する根拠を内省しているのである。その根拠が純粋表象としての空間と時間である。
第1・2図と第3図の間に断絶があるのは確かである。第1・2図は現実の「対象」と「心」との関係であるが、第3図は現実の対象から縮退して「心」だけの図である。現象の形式も純粋表象もどちらも「心」の中で生ずるからである。だが第1・2図は現実的経験であり、第3図は内省的経験であるとみれば、断絶はない。
繰り返しになるが、「先験的感性論」あるいは「超越論的な感性論」とは、感性が超経験的領域を対象とすることではない。それは超越的であって超越論的ではない。超越論的とは感性の存在を超感性的に根拠づけることである。その根拠である空間と時間が超感性的な純粋表象であるとはどういうことか、必ずしも自明とは思われないので、これから検討していくことにしよう。