『スピノザ「スピノザ」試論』 福居純著(その1)

ドゥルーズの『スピノザ 実践の哲学』第五章を読むことにより「共通概念」がエチカを理解するうえでいかに重要であるかが分かったので、本書を読むことにした。
本書では「共通概念」の説明が第四章から始まるのだが、その前提として前の三つの章で自己原因や様態について詳細な説明がある。
第一章は序文であり、スピノザの認識の三段階の内、第一種の認識と第二・三種の認識との間に断絶を認めるものである。そして第二種の共通認識が『エチカ』の要となっていることが指摘されている。
第二章は「自己原因と作用原因」であるが、著者は『エチカ』における証明とは別の方法で、スピノザの諸概念が「自己原因」に関係づけられることを解明している。「自己原因」が何であるかを正確に理解することが、スピノザの全体系を理解する鍵になっているのだ。
だから「属性」概念がよく分からないとすれば、それは「自己原因」が分かっていないからだと言える。著者が「自己原因」から説明を始めるのは、それを完全におさえておかないと『エチカ』の理解が砂上の楼閣になるからだろう。
自己原因は作用(生成、働きとも言い換えられる)を作用としてみることを意味している。

<在るがままに産出する>とは<産出する働き>を純粋に<働き>として支持するということである。(本書8頁)

私はこの「純粋に<働き>として支持する」という考えが、最も重要であると思う。
それは言ってみれば万物が作用(働き)であり、それ以外のものは存在しないということを意味する。作用を外から観察する視点は存在しない、そのような知性の視点もまた<働き>に含まれるということだ。
このことは、万物を産出するということは、産出されている過程それ自体もまた視点として産出するということであり、それが神の無限知性ということになる。
これは自然が自然を認識するということでもあるが、よく考えてみるとこれが一番自然な考えではないだろうか。意識や認識を自然とは別次元の存在とする方がよほど不自然である。人間の認識は自然の自己認識を非十全な形で反映しているにすぎない。
意識中心のデカルト的世界観にどっぷりつかっていると分かり難い考えだが、「自己原因」という概念を矛盾なく捉えようとすると、そう理解するしかないことが分かる。もし<働き>を外から対象化するなら、必ず結果が生じることになり、その結果には原因があり、その原因もまた一つの結果であり、原因の原因・・・ということで、因果関係の無限遡行が生じるからである。
こうしてみると存在が力であることも「自己原因」によって理解できる。万物は固定したものではなく作用なのだから、存在とは産出する働きであり力である。
また自己原因を働きに即して捉えることは、神を自己表現として捉えることでもある。

このような<純粋に働きに即して捉えられる自己原因>としての<神の完全な自己表現>を、スピノザは「属性(attributum)」と定義する。(本書9頁)

神(実体)は万物を産出するのであるから認識(視点)も神が産出する。そうした視点から神の自己表現を捉えたものが「属性」ということである。
ではなぜ「属性」が一つではなく無限にあるのか、今の私にはよく分からないが、おそらく人間が思惟と延長という二つの属性を知っていることが根拠になっているのだろうと思う。そこにデカルトのコギトの反響があるように思われる。
さらに著者は大胆にも神の「脱中心化」について言及している。神(実体)は固定した事物でなく作用(働き)であるから、自らの外部に中心を有するかのように、様々な表現をとる。自己表現する実体という視点からみるなら、実体は様々な属性を所有するのではなく、様々な属性から成るということになる。

事物が自らの中心をいわば失うということは、事物を表現づける差異としてのさまざまな性質が却って独立的な肯定的事物性となるからである。(本書15頁)

ここで著者は「事物」「性質」という穏当な用語を使用しているが、これは「実体」「属性」と読み換えることが可能である。(著者もこの論理を神の実在性につなげている)またそう読み換えると、スピノザが主張する属性の絶対的肯定の意味がよく分かるのである。(属性は他の属性によって限定されない)試しに読み換えてみよう。

神=実体が自らの中心をいわば失うということは、神=実体を表現づける差異としてのさまざまな属性が却って独立的な肯定的実在性となるからである。(本書15頁の読み換え)
著者はこのことを絵画によって説明している。絵画とは、事物が様々な色彩を所有していることを写しているのではなく、事物が様々な色彩から成るものとして表現されたものであり、各々の色彩の固有性を肯定することで完全性を語るものだというわけである。(このことを最も純粋な形で表現したのがポロックであろう)
自己表現しつつある神の実在性とは、無限数の属性が帰属する物ではなく、独立した無限の属性によって構成される<働き>である。だから「実体」というのは誤解を招きやすい用語であり、スピノザの神=実体は物ではなく<働き>としての実体である。
さらに自己原因から永遠性も導出される。
『エチカ』第一部では無限とか永遠とかが頻出するので何か神がかった妄言のような印象を受けるのだが、これは「自己原因」という概念を理性的につきつめていくとそうならざるを得ないのである。
これは逆に考えると分かり易い。私達や物体は生成消滅する有限の「持続」なのだが、これはその本質に存在が含まれていないからであり、原因が外にあるからである。原因が外にあるから時間が生じるのである。だからスピノザの「持続」というのは時間のことであり、神は自己原因として原因を外に持たないのだから、無時間的であり、ゆえに永遠ということになる。同時に「自己原因」が「持続」の原因でもあるということは、「永遠」は「持続=時間」の否定ではなく、無媒介的に区別されたものだということになる。
この「永遠」を「時間=持続」の否定として捉えないという考え方は、あらゆる否定を排除するスピノザ思想の特徴をよく表している。この論理から必然的に「死」にはいかなる否定もないということが導かれる。