『スピノザ「共通概念」試論』 福居純著(その2)

本書第三章「直接無限様態と間接無限様態」もまた難解である。
前の章で、「永遠」が「自己原因」から導出されることが分かったが、それでは「無限」はどうか。これは私の印象に過ぎないが、著者の説明を読んでいると、どうもスピノザは因果関係の無限遡行を逆手にとっているようだ。
神学者はこの原因の無限遡行を否定的に捉えている。原因を無限に遡行することは不可能だから、原因のない第一動者が存在するはずだというわけである。これは神を原因がないという形で否定的に定義することである。
これに対しスピノザは産出しつつある神=実体は自己原因として無時間・永遠であり、産出されつつある様態は時間・無限であるとしている。
なぜなら様態は自己原因ではなく、原因が外にあるのだから時間的持続であり、その意味での作用原因の系列は無限となるからである。つまりスピノザは原因の無限遡行を否定せずに<厳密な意味で>支持しているのだ。

実際、作用原因の系列の無限性を<厳密な意味で>支持するということは、当の無限の系列がいわば<全体として一挙に>産出されるということを含意するのである。(本書36頁)

なぜそうなるかといえば、これもまた「自己原因」の概念から導出されるのである。つまり自己原因として無時間・永遠である実体が産出するのだから、その産出自体は時間的ではないということになり、<全体として一挙に>産出されるのである。ここはドゥルーズが指摘しているとおり流出説が躓いた箇所だから容易には理解しがたい。井筒俊彦によると西洋思想の根幹である新プラトン主義が衰退したのは中核に狂気が潜んでいるからということだから、狂気にも等しいかもしれない。
ただ一方に「自己原因」という概念を立て、他方に時間的持続としての世界があるのだから、両者の関係は論理的にそうならざるを得ない。一者から流出するのではなく、実体(一者)と様態とは無媒介的に区別される。それが<全体として一挙に>の意味である。
著者が紹介しているスピノザの無限の証明は「思惟属性」の中の「神の観念」によるものでやや煩雑なのだが、「神の観念」をXとおくと証明の骨子はシンプルである。
属性の絶対的本性から有限なXが生ずると仮定すると、Xを限定する非Xがあることになる。すると属性から有限のXと無限の非Xが生じていることになり、Xが属性の絶対的本性から生ずるという仮定に反する。故に属性の絶対的本性から無限のものが生ずるというわけである。
私は最初これを読んでさっぱり意味が分からなかったが、「属性の絶対的本性から有限なXが生ずる」という仮定の意味をよく考えてみる必要がある。これは「絶対的本性」によるのだから、絶対的本性からX以外の無限のものが生ずることはないと仮定しているのである。だから有限のXとそれを限定する無限の非Xとの両方が生じているのだから仮定に反すると言っているに過ぎないのである。
かくして『エチカ』第1部定理21は、神の属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは、「永遠かつ無限である」ことになるのだが、産出しつつある神=実体が永遠であり、産出されつつある様態が無限であるから、属性は実体と様態とをつなぐものであることが分かる。これが直接無限様態である。

属性が永遠かつ無限の様態を自らの絶対的本性によって産出すると主張することは、当の属性が自らの自己原因性を通して、<有限な>様態の系列全体を<条件づけられぬ仕方で>産出すると主張することに他ならぬのである。(本書38頁)

「属性が自らの自己原因性を通して・・・産出する」ということで、いつのまにか属性が神のようになっているが、前回述べたように、属性とは無限知性によって捉えられた神のことであるから矛盾はない。
様態は、それが時間的に持続する限り一定の時空に存在するのだが、それは抽象的な捉え方であり、「神の属性のうちに包容されているかぎりにおいて眺められるなら、様態の本質とは<力能の度>に他ならぬのである」(39頁)
前回述べたとおり存在とは産出する力であるから、様態も神の属性の一部としてみるなら、その本質は<力能の度>ということになる。またそれは神の属性であるから、様態の個々の本質は永遠である。このようにして個々の様態の本質は属性のうちに包容されていることになる。

言うなら、属性は<産出しつつあるもの>と<産出されつつあるもの>との双方に、<つつある>という同じ形相のもとに存在している(本書39頁)

これが属性の一義性である。神・人間・動物・物体のすべてに同じ属性が適用されるのである。延長属性だけでなく思惟属性もそうであり、物体が思惟していないように見えるのは物体の思惟属性が不活性であり、<力能の度>が低いからに過ぎない。つまり、神の本質が無限に多くの仕方で分有されるということである。人間もまた思惟属性と延長属性についてそれなりの度合で力能を分有しているだけであり、それ以外の無限数の属性については物体と同様に<力能の度>が低いのである。

神的実体の本質が無限に多くの仕方で様態に分有されることによって、各々の様態の本質は神的実体の力能の部分として<度>において表現される。(本書40頁)

直接無限様態としての思惟とは、個人ごとに分離している思惟ではなく、神の本質の分有としての思惟であり、共通の原因をもつものとして相互に関連し合って無限の系列を構成しているものである。しかもそれは永遠の相のもとで一挙に与えられているのである。
この「永遠の相」とは、まさに実体と様態、永遠と無限とが、相互に否定することなく絶対的肯定として区別されていることを示している。つまり様態には「永遠の相」と「持続の相」の両義性があるということだ。
スピノザは直接無限様態の例示として、思惟属性の直接無限様態を「絶対的に無限の知性」、延長属性の直接無限様態を「運動と静止」としている。
「運動と静止」が延長属性の直接無限様態となる理由は、前回述べたように、神=実体が<働き>としての実体であり、延長属性がその本質を分有しているからだろうと思われる。
つまり個物にとらわれることなく、それらを産出されつつある様態としてみるとき、延長としての個物の本質は、運動と静止ということになる。
逆にスピノザは延長属性の間接無限様態を「宇宙全体」としていることから、間接無限様態とは、本質を存在として捉えたものであることが分かる。
本章では間接無限様態の説明が少ないので、なぜそういう概念が必要なのかよく分からないのだが、私なりに推測すると、様態を<永遠の相>でみたのが直接無限様態、<持続の相>でみたのが間接無限様態ではないかと思われる。
スピノザ思想の魅力は「永遠の相」で恍惚としているだけでなく、「持続の相」においても実りのある議論を展開していることであり、単なる知識だけではなく喜びの肯定的感情が生じてくることにある。