『スピノザ「共通概念」試論』 福居純著(その3)

さていよいよ本題の第四章「共通概念と想像的認識」であるが、スピノザの三段階の認識観によると「想像的認識」が第一種の認識、「共通概念」が第二種の認識ということになる。
ここで一つ根本的な疑問が生じてくる。スピノザによると万物は神(実体)の様態として産出されるのだが、するとどうして万物は調和せずに、相互に争い合うのかということである。スピノザの論理は緊密に連繋していて、これは前回述べたことが関連している。

神的実体の本質が無限に多くの仕方で様態に分有されることによって、各々の様態の本質は神的実体の力能の部分として<度>において表現される。(本書40頁)

この「無限に多くの仕方で」という挿入句が重要であり、産出された無数の様態には<度>の差異があるということだ。そして様態は自己原因ではないので他に原因がある。
神を原因とする場合は、自己原因であるから無時間的であり、産出された様態は結果であるにしても、結果が原因に含まれるということで、神の一部でもある。これが<永遠の相>である。
だが他の様態を原因とする(例えば私は親を原因としている)場合は、原因が外在的であるから結果が後続するということで時間的持続となる。これが<持続の相>である。
<持続の相>における様態が相互に原因となり結果となるという因果関係は、作用原因の無限系列となる。前回はこの無限系列が自己原因によって<全体として一挙に>産出されるということであった。
この無限系列は、無限であるから全体を把握することが不可能である。だから<持続の相>においては、原因が関連し合って全体をなしていること、つまり神から産出された「直接無限様態」の調和の姿を見ることができない。したがって各様態は各々独立した個物として存在することになる。
さらに神的実体の本質が<無限に多くの仕方で>分有されるのだから、各様態は独立して存在するだけでなく、<力能の度>に差異があるものとして存在することになる。すると<力能の度>が相対的に高い人間が、より低い動物や物体を自分の用に供することになる。だがこの「自分の用に供する」というのも思い込みであって、人間から流出したり解体した後の分子・原子は、別の構成関係に入り何かの素材になる。
つまり、各個物が相互に争い合う根本の理由は、「力能の度」に差異がある各個物が時間的に持続して原因となり結果となるからである。
自分の外に原因をもつということは各様態が受動的でありかつ時間的だということを意味する。感情の受動性は時間に関係しているのだ。(ここはハイデッガーと類似していて興味深い)
「想像的認識」は、この直接無限様態を直観できないということに関係している。争いとして見えるものは、<持続の相>でみた想像的認識である。受動的感情でみれば、様態が相互に原因となり結果となっている姿が、万人の万人に対する闘争として見えることになる。
このことは第一種の認識である「想像的認識」には喜びがないということを意味する。
第二種の「共通概念」は、個物としての受動的な認識ではなく、すべての個物が神から産出された直接無限様態であることの認識であり、その意味では個物の本質は解体される。
本書ではそこまで言及されていないのだが、私は人間が共通概念を持つと個物としての自我が解体されるのではないかと思う。自我と共通概念はどうみても両立しないのだ。あるいは自我を維持したままでは単に「共通概念」というラベルを貼った「想像的認識」ではないだろうか。スピノザの定理では、共通概念は個物の本質を構成しないとある。

すべてのものに共通であり、そして等しく部分のなかにも全体のなかにも在るものは、けっして個物の本質を構成しない。(本書66頁『エチカ』第二部定理37)

以上、まず想像的認識と共通概念とがどういうものか概観したが、さらに内容をみていこう。
スピノザの「観念」は独特であって、それは人間だけがもつ観念ではない。「観念」とは神の思惟属性の様態であり、何らかの観念対象をもつという性格がある。
だから、物体の観念は、物体を観念対象としているのである。人間を離れて独立してそういう物体の観念があるというのだ。
そして人間は無数の個体(外延的諸部分)から成る。原子・分子の「運動と静止」、つまり様々に異なる速さの個体(粒子)が人間という構成関係の下に帰属したものである。同様にそれらの個体を対象とする観念もまた構成関係に入り人間の精神となる。スピノザの「人間精神とは身体についての観念である」という主張はそういう意味である。
これは私という意識も、外延的諸部分を対象とする観念によって構成されたものだということだ。分子状無意識のような極小の観念が多数構成されて精神となり、身体上の粒子レベルの変化を観念が反映しているのである。
さらにそれらの個体は常に異なる速さで運動している。しかもその運動は外部に開かれていて別の構成体との接触により運動に変化が生じる。その変化だけを対象とした観念が「想像的認識」であるが、それは「意識」のことでもある。
例えば視界は外部の光を受けて視神経等を構成する諸個体の運動が変化したことによるのだが、そうした諸個体に生じた事態を対象として表象する観念が「想像的認識」であり意識である。だから「想像」とはいえ、日常の現実的な感覚与件でもある。
これがなぜ「想像的認識」であるかといえば、原因の認識が欠けているからである。原因の認識が欠けている観念を、スピノザは「非妥当な観念」、「非十全な観念」としている。
これに対し「共通概念」を獲得することは直接無限様態を直観することでもあり、人間身体は他の物体と共通した延長属性を有するのであり、それは神の延長属性に包容されるものとして他の無限の様態とともに、共通の自己原因により存在するものとして、個別の本質を失うのである。

ここまで書いてきて、ようやく著者の「因果関係を無限の系列として支持する」という言葉の真の意味がクリアになった。
「無限の系列」とは中心がないということであり、「人間身体が自らを中心にして外部の物体を秩序づけるということを止めること」(116頁)である。
このことは私見ではニーチェ永劫回帰の覚醒による自我の解体とたいへんよく似ているのである。(クロソウスキーによると永劫回帰を知識ではなく覚醒として体験することは、かつて何度も永劫回帰を覚醒した体験を忘却していること、またこれからもこの覚醒体験を繰り返し忘却すること、すなわち現在の自我が無数の異なる自我になることを意味する)
ニーチェスピノザを読んでいるのだから、どこかで影響を受けているのではないかと思う。
さらにこの「因果関係を無限の系列として支持する」ことに耐えられない者が、原因のない第一動者としての神を立てたり(トマス・アキナス)、無限の系列を超越した外在神を立てたり(デカルト)するのだが、そのことは他方では自我という中心を確立することを意味するのである。デカルトはよくがんばっている。だが因果の無限系列のなかで自我が崩壊する寸前のところで、超越神を立てることでコギトを救出しているのである。デカルトによると因果関係は必然的であるが、因果関係の措定は偶然であるとしている。だから因果関係が必然であるのは、神が因果関係を措定し続けているからである。これが連続真理創造説である。だがそのことは作用原因とは別に自己原因を超越的に立てるということである。スピノザにはそのような作用原因と自己原因の区別はない。作用原因は自己原因でもあるのだ。つまり原因の一義性とは自己原因が内在神であり、すべてが必然であることを意味する。そのことは同時に自我の脱中心化であり、第三種の認識における能動的な喜びとは自我の解体である。そこにはいかなるニヒリズムも道徳も命令も服従もない。
スピノザは『デカルトの哲学原理』によってそのことに気づいたのだ。だから『エチカ』を書いたのである。