『スピノザ「共通概念」試論』 福居純著(その4)

第四章にはドゥルーズ批判の箇所があるので、それについても触れておきたい。
ドゥルーズは「共通概念」が大きく二種類に分けられるとして、<一般性の低いもの>と<一般性の高いもの>とに区別した。つまり『エチカ』第二部定理38が<一般性の最も高い共通概念>、定理39が<一般性の最も低い共通概念>というわけである。
これに対し著者は次のように批判している。

「共通概念」とはまさしく<共通なもの>それ自体をいうのであって、そこに一般性の程度の高低を語ることは不合理であろう。(本書107頁) 

このことは重箱の隅をつつくような議論ではなく、人はどのようにして共通概念を得るかという方法論に関わる問題である。つまりドゥルーズの見解によると、一般性の低い共通概念(二者の個物の共通概念)から一般性の高い共通概念(すべての個物)へ「移行する」ためには良い出会いを重ねる必要があるということである。なぜ良い出会いが必要かと言えば、喜びの感情がそれに対応する共通概念を形成するように導くからである。
このドゥルーズの考えが不倫の勧めのような感じがするのは私だけだろうか。
著者によると、二者の個物の共通概念を極めることが、すべての個物の共通概念を得ることに繋がるということである。なぜなら万物が神の属性に包容されていることは、二者の個物においても同様であるからだ。逆に二者の個物の共通概念を掴み損ねているならば、いくら多くの出会いを重ねても一般性の高い共通概念を得ることはできないだろう。
このことは永遠と持続の無媒介的区別という著者の考えからも必然的に帰結すると思われる。

第五章「共通概念と直観知」は第二種の認識である共通概念から第三種の認識(直観知)への移行を説明している。
この第三種の認識とは何か。あまり早合点せずに、じっくりと後の楽しみとしたいぐらいであるが、本書を読んでいると、「一即多」の反響があるように思われる。
つまり第二種の共通概念における「一般性」が「一義性」に変ることにより、持続における各個物がそのままで「永遠の相」のもとに存在すること、いわば神の属性と万物の属性が同一であることを直観することが第三種の認識である。
してみると「一即多」のような印象を受けるのだが、そのように上から目線で要約してしまうとあまり面白くないし内容も乏しい。
スピノザの第三種の認識とは、「一即多」のような超越論的な知識ではなく、精神と身体が変身することを含意していることに留意しなければならない。なぜなら心身並行論により、精神において生じることは身体においても生じるからだ。
人間が共通概念を持つということは、神へ一歩近づくことであるが、それは前回述べたように自我の解体を意味している。著者はそのことを明言していないが、共通概念をもつことは「人間身体が自らを中心にして外部の物体を秩序づけるということを止めること」であり、「共通概念は個物の本質を構成しない」と述べているのだから、薄々気がついているはずである。
このことは具体的にどのような経験となるのか?
本書の第五章は観念的な言葉の羅列で、これまで労苦の果てに読んできた結末としてはややガッカリ感があるのだが、それでもスピノザが第三種の認識を具体的経験として考えていたことを推測させるような箇所がある。

 受動である感情は、われわれがそれについて明晰判明な観念を形成するや否や、受動であることを止める。(『エチカ』第五部定理3)

これは怒りの正体が分かると怒りが消える(ホンマか?)というようなことを言っているのではない。「明晰判明な観念」とは共通概念のことであり、感情の原因の認識を含むのであるが、人間は未だ感情の真の原因が分かっていないし、また、受動的であることを止めた感情がいかなるものかも知らない。悪口を言われたことが怒りの原因であると思うのは第一種の認識である。なぜその悪口が私を怒らせるのか、そこまで考えると非コギト(無意識)との関連を問うことが必要になってくる。さらにその悪口の原因も知らなければならない。これも相手の無意識まで関わってくるだろう。さらに感情一般の本質と原因まで解明しないと共通概念とはならない。第二種の認識とは科学である。
この指摘に触発されて、『エチカ』第五部の諸定理をみてみると、スピノザは第三種の認識とともに人間の感情について多く言及している。つまり第三種の認識をもつことによって、身体の変状能力がどのように変るかを記述しているのである。これはやはり解説書ではなく、『エチカ』そのものを読んで体験するしかないと思われる。(この稿終)