『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その1)

第一部 神について

定理16 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。

第一部の中ではこの定理が最も重要ではないかと思う。この定理によって、実体が実体にとどまることなく、無限の仕方で無限の様態を産出することの根拠になっているからだ。いわば神が永遠・無限であるとか無限数の属性からなるという定理は神の観念を構築しているのだが、なぜそこから世界が生じるのかが分からない。この定理によってはじめて我々の世界と神との関係が明確になるのである。
にも関わらずこの定理の証明は不充分である。証明の骨子は、物の定義が与えられると、そこから知性は多数の特質を結論することに根拠を求めている。周知のようにスピノザの定義は発生的定義である。それは最も近い作用原因を含まなければならない。だから円の発生的定義とは、中心から等距離の点集合ではなく、「一端が固定し他端が運動する任意の線によって画かれた図形である」(『知性改善論』畠中尚志訳)という定義になる。
この発生的定義は具体的に円図形を発生させるゆえに、円周が中心から等距離という特質だけでなく、およそ円が有するあらゆる特質(等周定理、接弦定理など)を引き出すことが可能となるのである。では神の発生的定義とは何か。

定義6 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。
定理11 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。(『エチカ』第一部 畠中尚志訳)

國分功一郎は定義6の「解する」という言葉をもって、それが発生的定義ではなく「名目上の定義」であるとしている。(『スピノザの方法』299頁)
そして定理1~10までの証明を踏まえて定理11で存在証明しているのだが、定義6とほぼ同じ内容であり、ただ「解する」が「必然的に存在する」に置き換わっただけのようにみえる。
だが、定義1により「自己原因とは、その本質が存在を含むもの」とされているのだから、存在を含む定理11こそが神の発生的定義であると言えよう。
こうしてみると、「無限に多くの属性」から無限に多くの特質が結論されることはもっともであるが、知性が発生的定義から無数の特質を結論することと、知性によって把握されうるすべてのものが生じることとは別のことではないか。
もっとも神においては知性によって把握することと産出することが同じであるのかもしれないが、その根拠はどこにあるかといえば、まさにこの定理16なのである。その証明が不充分だというのはそういうことである。

私は大胆にもスピノザにいちゃもんをつけているわけだが、何回読んでみても定理16の証明はぐるりと一周回って自己回帰しているようにしか思えない。

そこで再度、神の定義をよく読むと「本質を表現する無限に多くの属性」とある。これは定義4の属性定義と異なり、構成要素としてではなく表現要素として属性が定義されている。(このことは國分功一郎の指摘による)
そして自己原因は本質に存在が含まれるのであるから、属性は本質としての存在を表現していることになる。したがって属性定義から結論される無数の特質は必然的に存在するということかも知れない。(これは後続定理20で明らかになる)
そういう目で第一部後半を読んでいると、定理17の備考に「神の知性は、神の本質を構成すると考えられる限り、実際に物の原因-物の本質ならびに存在の原因-なのである」という言葉があるので、概ね推測どおりである。
定理21は直接無限様態に関するものだが、その証明には次のとおり誤植がある。

「神のある属性の絶対的本性から必然的に生起するある物は、定まった持続を有することができ、むしろその属性によって永遠である。」(ワイド版岩波文庫
「神のある属性の絶対的本性から必然的に生じてくるものは、かぎられた持続をもつことができない。むしろその属性によって永遠である」(中公クラシックス版)

原文はnon potest determinatam habere durationemであるから、「定まった持続を有することができ」では意味が通らない。中公クラシックス版の「できない」が正しい。単純ミスであろう。つまり絶対的本性から生起する様態(直接無限様態)が持続相の有限物でないことはこの命題により明らかである。
この定理21もまた当然のように属性から直接無限様態が生ずると言っているのだが、そもそもなぜ「生ずる」のかよく分からないのである。
こうしてみるとやはり『エチカ』では説明されていないのだが、スピノザにとっての自明の前提があるように思われる。それは福居純が指摘したことだが、自己原因を<働き>として捉えているということである。だから「なぜ産出しているのか?」と問うことはできないのである。「産出しつつある」こと自体が自己表現としての神であり、産出活動を除いて神なるものは存在しない。だから産出するか否かという選択の自由は存在せず、ただ本性に基づいて必然的に生じているというわけである。これが「表現」の意味と思われる。