『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その2)

第一部 神について

能産的自然と所産的自然はスピノザ自身の用語であり、定理29備考にみられるのだが、直接無限様態と間接無限様態は『エチカ』にはみられない。スピノザ研究者が使う用語であろう。畠中尚志の訳注にみられる用語である。ドゥルーズや福居純も使用しているのだが、どうも違いが今一つよく分からない。研究者が直接無限様態と間接無限様態の根拠としているのは次の定理である。

(直接無限様態)
定理21 神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬ、言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限である。
(間接無限様態)
定理22 神のある属性が、神のその属性によって必然的にかつ無限に存在するようなそうした一種の様態的変状に様態化した限り、この属性から生起するすべてのものは同様に必然的にかつ無限に存在しなければならぬ。(畠中尚志訳)

この二つの定理を見比べてみると、直接無限様態は「永遠かつ無限」であり、間接無限様態は「様態的変状に様態化した限り」(つまり持続の相)とある。
前回(『スピノザ「共通概念」試論』(その2))私は様態を<永遠の相>でみたものが直接無限様態、<持続の相>でみたものが間接無限様態であると推測したのだが、『エチカ』の定理によってそのことが検証されたと考える。
だからこのことは何度も強調したいが、直接無限様態とは無時間的な永遠の本質なのだ。
これに対し間接無限様態とは時間的な存在であり、個物の無限集合である。
どちらも無限様態なのだが、間接無限様態は時間的存在であり「永遠」ではないのである。(この説明はドゥルーズより明快ではないかと自負している)
そして有限的個物は間接無限様態の部分でもある。
こうしてみると、個物-間接無限様態-直接無限様態-神、と階層化されていることが分かる。個物(持続)と神(永遠)を無媒介的に連結せずに、間に二つの無限様態を媒介にしているのだが、同じ「様態」で持続と永遠を連結しているのが巧妙である。
スピノザは書簡4の中で、延長属性の直接無限様態が「運動及び静止」、間接無限様態が「全宇宙の姿」としているのだから、大体、上の解釈で間違いないだろう。
最後に補足として第一部付録の中の強烈な箇所を紹介したい。

もし万物が神の本性の必然性から起こったとするなら自然におけるあれほど多くの不完全性は一体どこから生じたのか。例えば悪臭を発するにいたるまでの物の腐敗、嘔吐を催させるような物の醜怪、混乱、害悪、罪過などなどはどうかと。しかし、今も言ったように、これを反駁することは容易である。なぜなら、物の完全性は単に物の本性ならびに能力によってのみ評価されるべきであり、したがって物は人間の感覚を喜ばせ、あるいは悩ますからといって、また人間の本性に適合しあるいはそれと反撥するからといって、そのゆえに完全性の度を増減しはしないからである。(『エチカ』第一部付録)

やはりスピノザ神ってるというか、人間とは異なる感性があるようだ。腐敗も嘔吐もそれ自体としては完全性があるというのである。それだけでなく、犯罪者(罪過)も完全性がある。犯罪者という本質を表現して犯罪を実行したに過ぎないからである。神は無限の仕方で様態を産出するのだから、様態の本質である<力能の度>も無限に差異があるのだ。それが許せないと思うのは、「人間の感覚を悩ますから」に過ぎないのである。サドを肯定しながら同時に神を賛美しうるのである。これはどうみても発禁ものだろう。そう思うのは「完全性」という用語を倫理的に捉えているからである。
もちろんスピノザ第四部定理35により「人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性上常に必然的に一致する」と述べている。
ただ留意すべきは、スピノザはそのことを論理によって証明しているのであって、調和一致が人間にとって望ましいから希求しているのではないということだ。人を安心させるような連帯感ではない。善良な市民も犯罪者も完全性において変わりはないと言っているのだから不穏である。たかが犯罪ぐらいで大騒ぎするなということだろう。ただ、完全性とはスピノザの定義では実在性を意味するだけである。だから犯罪者に完全性があるというのは、犯罪者が実在すると言っているに過ぎない。スピノザには善悪を超えた廉潔というものがあるように感じる。
昔は疑問だらけで第一部を読了するのに手こずったものだが、今回は予習復習の甲斐あって一日で読了できた。この調子で進めたい。