『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その3)

第二部 精神の本性および起源について

第二部はまずその読みやすさに感銘する。定義・公理・定理の一つ一つが第一部よりも理解しやすく、またそれまで疑問に思っていた用語の意味もクリアになる。
例えば、第一部では「完全性」という用語が頻出するのだが、第二部定義6により「実在性と完全性とは同一のものであると解する」とされている。(この定義をもっと早く出せといいたい気もするが)
これによりスピノザが悪や腐敗にも完全性があると主張しているのは、ただそれらが実在すると言っているに過ぎないことが分かる。そして実在を認めることは肯定することでもある。人間にとって都合が悪いからといって実在しなくなるわけではないということだ。
ただ、この読みやすさは第一部と比較した相対的なものだから、やはりある程度は第一部と付き合っておく必要があるだろう。
感情の正体も公理として明確にされている。

公理3 愛・欲望のような思惟の様態、その他すべて感情の名で呼ばれるものは、同じ個体の中に、愛され・望まれなどする物の観念が存しなくては存在しない。これに反して観念は、他の思惟の様態が存しなくとも存在することができる。

感情も観念だというのだから、そうかな?という疑問が生じるかもしれない。だがスピノザの「感情」観に曖昧さがないということは確かである。
まず「観念対象」と「物の観念」を混同してはならない。観念はすべて観念対象をもつ(第一部公理6)のである。だから、ここで言っていることは、感情という観念は物の観念とペアになった対観念だということだ。「物の観念」と「感情の観念」が二つ一組になっているということである。これに対し感情でない観念は単独で存在することができるという意味は、「物の観念」と一組になっていないが、観念対象を有しつつ単独で存在できるということである。ややこしいと思われるかもしれないが、曖昧ではない。スピノザの「観念」観は、分子・原子のようなものであり、それらの分子状観念が構成されて一つの精神となるのである。
延長属性と思惟属性との間に何の因果関係もないにも関わらず、物理学などにより延長物体を対象として思惟しうる理由は、「物を対象とする観念」と「法則を対象とする観念」とがペアになっているからである。どちらの観念も延長物体に直接関係するのではなく、観念同士の構成関係のみで物理学の精神が形成されるのである。だから人間が物体と思っているものは「物を対象とする観念」なのである。これが正しいかどうかはともかく、認識論のアポリア(主観と客観がなぜ一致するのか)を回避できているのは確かである。
一見、観念論と似ているようだが、精神を観念の構成関係とみるところが主客合一などと異なっている。精神を構成する個々の観念を精神にとっての外延対象とみなすならば、それは唯物論あるいは自然科学とほとんど同じ構造になる。多くの人がスピノザ思想に唯物論を嗅ぎ取るのも無理はないのである。神即自然だから唯物論なのではない。そこから帰結される論理構造が擬唯物論的なのである。私の精神も身体も、多くの外延対象(諸観念、諸個体)によって構成されているのだ。心身並行論に基づくならば、身体が素粒子によって構成されているのと同じように、精神もまた素粒子を対象とする諸観念によって構成されているのである。「自意識」とは自分が何によって構成されているかを知らない(つまり原因の認識を欠く)想像的認識に過ぎないのだ。スピノザ思想は徹底した「外の思考」である。素粒子の観念が存在しうるのか?という疑問については、次のとおりである。

定理3の証明(抜粋) 神は神の本質、ならびに神の本質から必然的に生起するあらゆるもの、について観念を形成しうる。

あらゆるものだから当然、素粒子も含むであろう。それについての観念を形成しうるのである。(証明の後半で形成しうることは必然的に存在するとなっている)
だが、それにしても人間は延長属性と思惟属性しか知らないということであれば、例えば「痛覚」などはどういう位置付けになるのだろうか?
スピノザの感情の定義からすると、「痛覚」も観念ということになりそうである。
まず「身体の変状を対象とする観念」があり、その観念を対象として「痛みを認識する観念」があるということだろうか。
公理3と次の公理4を組み合わせると、どうも感じているのは「観念」のようだ。

公理4 我々はある物体(身体)が多様の仕方で刺激されるのを感ずる。

私としては「観念」が痛覚を感ずるということには違和感を感ずる。だがあらためて痛覚とは何かと考えるとよく分からなくなる。神経電流を脳が検知するということは、やはりスピノザのいうとおりかもしれない。ひとまずそう理解して次へ進むことにしよう。

定理5(抜粋) 観念の形相的有は、神が思惟する物とみられる限りにおいてのみ神を原因と認め、神が他の属性によって説明される限りにおいてはそうではない。

この定理によって、ようやく「属性」の意味がクリアになってきた。まず我々にとって思惟属性の様態(個別の観念)が存在することは明らかである。それが神の本質を表現しているということだが、それは「神が思惟する物とみられる限りにおいてのみ」なのである。
つまり思惟属性においてみると、神は思惟する物としてみられるということであり、延長属性においてみると、神は延長する物としてみられる。だがそれらはすべて神の一面だということであり、怪人無限面相のようなものである。
(畠中訳では「思惟する物」res cogitansとなっているが、工藤訳では「思惟するもの」である。resには物だけでなく事態という意味もあり、「物」と訳すと働きとしての実体という側面が見えなくなるのではないか。それでも私は簡潔な畠中訳の方を好んでいる。違和感を感じるときは調べればよいのだ。)
また、この定理は心身並行論の前触れともなっている。なぜなら観念は、思惟する物としての限りでの神を原因とし、延長物を原因としないからである。物体と思惟との間には因果関係はないということである。この段階では相互に独立しているだけで、次の定理で並行が説かれる。

定理7 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。
証明  第一部公理4から明白である。
公理4  結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。

スピノザの凄いところはすべてが一分の隙もなく関連し合っているということである。
この定理によって心身並行論が説かれているだけではなく、「神の思惟する能力は神の行動する現実的能力に等しい」(同定理系)ことまで導出されるのである。このことは思惟する神を原因とする観念の秩序と、延長する神を原因とする物の秩序が同一なのだから自明である。だから心身並行論に反対する者は、神は思惟したことを実現できないと主張していることになる。これでは当時の神学者達は反論しにくいであろう。
また同様にすべてが必然であることを反対する者は、神が思惟したことを実現しないこともありうると主張していることになる。これは神が人間と同じように偶然にまかせた選択の自由をもつということである。
こうしてみると心身並行論の特異性が際立ってくる。心身並行論に反対することは、人間の意識を神に投影していることになるのだ。
さらにこの心身並行論は、「自然を延長の属性のもとで考えようと、あるいは思惟の属性のもとで考えようと、あるいは他の何らかの属性のもとで考えようと、我々は同一の秩序を、すなわち諸原因の同一の連結を、言いかえれば同一物の相互的継起を、見いだす」(同定理備考)のであるから、唯物論も観念論も関係ないということになるのだ。いずれにしても探究していけば同一の秩序を見いだすのである。それらが対立するのは探究していないからである。
このことは、『神学政治論』において、諸宗教がいくら対立したとしても「神を敬い隣人を愛すべし」という「敬虔の文法」は同一であるという主張の反響をみる様な気がする。諸宗教が対立するのは敬虔ではないからである。論ずる対象が異なっていても論理のタイプは同じである。