『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その4)

第二部 精神の本性および起源について No2

スピノザの定理には時として理解に苦しむものがある。だが、それはあらゆる疑問に対応するために考え抜かれた定理なのだ。そこまで考えておられるのなら、もう一切を委ねますという感じになってくる。次の定理がそうだ。

定理8 存在しない個物ないし様態の観念は、個物ないし様態の形相的本質が神の属性の中に含まれていると同じように神の無限な観念の中に包容されていなければならぬ。

そしてその証明として前定理(心身並行論)により明白というのである。
素直に文言どおり受け入れるならば、まず前定理7は心身並行論であるから、定理7が「存在する個物」の心身並行論であるのに対し、定理8は「存在しない個物」の心身並行論になっているのだろうと推測できる。
問題はなぜ「存在しない個物」の心身並行論まで考えなければならないのかである。
ここで留意しなければならないのは、定理7は人間ではなく神の心身並行論だということである。
そして神の産出過程は、前回述べたように、神=実体(永遠)→直接無限様態(永遠)→間接無限様態(持続)→有限様態=個物(持続)となるのである。
すると定理7は<永遠の相>における心身並行論であるが、<持続の相>において個物は生成消滅するのであり、私は生きている間は存在するが、死んだ後は「存在しない個物」になる。
だから定理8は、私が死んだ後の「存在しない個物の観念」が神の無限な観念の中に包容されるとして面倒をみてくれているのだ。言いかえれば定理8はスピノザ流の彼岸論であると同時に、神から人間(有限様態)へと心身並行論を繋ぐものである。
たとえ第三種の認識により神の無時間的な永遠の本質の中に私が包容されると言われても、あまり救われた気がしない。なぜなら永遠はさておき、「持続の相」においては、死んだ後の世界は存続するのであり、その世界において私は存在しないからだ。これは絶望ではないか?
だがスピノザ思想は予想以上に深遠であり、持続の世界を巧妙に永遠に繋ぐのである。すなわち、無時間的な永遠の相においてはすべてが必然的現実である。「存在する個物」も「存在しない個物」も等しく現実のものとして同等であり、それが時間的な持続の相においては「存在する個物」と死んでもはや「存在しない個物」とに区別される。すなわち有限様態となるのである。だが「存在しない個物」の観念も神の無限な観念の中に包容されるのである。有限である私が永遠の神に包容されるとは一体どういうことか、徹底して論理的につきつめられている。
この「存在しない個物」の観念が「永遠の相」においては現実のものであるという考えが、ドゥルーズの潜在性の概念になったことは間違いないだろう。
この定理8の具体例としてユークリッドの「方冪の定理」が例示されているが、「方冪の定理」とは要するに円の中で交わる二つの直線によって、形は異なるが面積が等しい四辺形の無数のペアを作ることができるということである。そしてこの無限のペアは円の中に潜在するだけであり、線を引くまでは存在しない。直線DEを引いたときに初めて「存在しない無限のペア」から一組のペアが存在することになる。だから「存在しない無限のペア」はまさに存在しないのだが、円という観念の中に現実性として包含されているということである。ドゥルーズならこの「無限のペア」を可能性ではなく現実であるが顕在化していないものとして「潜在性」と言うであろう。スピノザの神とドゥルーズの「器官なき身体」との類似性は明白であり、『アンチ・エディプス』が現代のエチカといわれるのももっともである。
最初読んだときはいかにも分かりにくい例だと思ったが、よく考えると含蓄のある例である。円を神、直線DEを私としてみれば、まさに私は「存在しない個物」となっても、円である神の観念の中に包含されているのである。
以上あまりにも極私的に引き寄せて解釈したが、それは分かり易くするための方便であり、もちろんスピノザは様態一般について述べているのである。

定理9 現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状した(発現した)と見られる限りにおいて神を原因とし、この観念もまた神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進む。

この定理も分かりにくいが、自己原因と作用原因が同一であるということがどういうことなのかを論理的に解明したものと思われる。
福居純によると作用原因の無限系列が自己原因によって<一挙に全体として>産出されるのであるが、それは無限系列の各項がそれぞれ自己原因によるということである。
つまり自己原因は<働き>であり、表現であるから結果は原因に含まれ、無限系列の各項が結果でもあり自己原因でもあるということである。これが各項(有限様態)が神の属性を表現するということの意味である。いわば水平の作用原因の因果関係に対し、自己原因が垂直に働くというイメージである。
この定理9は、そうした原因の一義性がどういう事態かを具体的に説明したものであり、「神が現実に存在する他の個物の観念に変状したと見られる限りにおいて」とは、要するに神が作用原因に化けるということである。「現実に存在する個物の観念」とは「持続の相」における観念であるから、そういう観念からみると、作用原因としての隣の観念が「変状した神」だと言っているのだ。
なぜそうなるのかと言えば、「神が絶対的に思惟する物」であるとするなら、そこから生じる観念は無限であって、有限ではありえないからだ。だから、有限の観念の原因は、有限様態に変状した限りにおいての神だということになる。
なぜそんなことを考える必要があるのかと言えば、それは「永遠の相」における心身並行論が「持続の相」においても成り立つことを証明するためである。
定理9は「持続の相」においても神を出発点として観念の因果関係が成り立つのだから、物の因果関係も成り立つ、ゆえに永遠ではなく時間的な持続の相においても心身並行論が成り立ち、これでようやく人間の心身並行論に到達するのである。