『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その5)

第二部 精神の本性および起源について No3

スピノザの「本質」が一体どういうものか分かりにくい。定理10備考はそのことをあらためて考えさせられる。本質は次のように定義されている。

定義2 それが与えられればある物が必然的に定立され、それが除去されればそのある物が必然的に滅びるようなもの、あるいはそれがなければある物が、また逆にそのある物がなければそれが、在ることも考えられることもできないようなもの、そうしたものをその物の本質に属すると私は言う。

奇妙な定義だと思う。もっと簡単に書けませんかと言いたくなる。とても本文だけでは理解しがたい。
このため研究者達(黒川勲、小竹陽介、河井徳治など)の論文を読んで見たが、スピノザが「本質」を形相的本質と現実的本質の二つに区分していたことは確かであるようだ。
そこで私は「形相」と「現実」という言葉に着目し、本質はあくまで一つである。ただ、「永遠の相」における本質が形相的本質であり、「持続の相」における本質が現実的本質ではないかと考える。
その根拠は定理8であり「個物ないし様態の形相的本質が神の属性の中に含まれている」とされている。だから形相的本質は永遠相における本質である。
そして定理10備考は定義2を援用しているのだが、定義2は「定立され」たり「滅びるようなもの」について定義されているのだから、これが持続相における現実的本質であることは間違いない。
だから第二部で定義されている本質は、第一部のように神の本質ではなく、持続相における現実的本質である。
そして持続相における現実的本質は「そのある物がなければ」在ることができないのだから、現実的本質そのものが存在しなくなることもあるのだ。つまり現実的本質は個物と運命をともにするのである。研究者達は概ねそのように解している。
問題は個物とともに滅ぶような「現実的本質」とは一体何か?である。
そこで定義2をよく読むと、本質の定義に「在ることができる」とか「考えることができる」というように、能力が関係していることが分かる。
思い起こせば、神の存在とは自己原因としての<働き>であり、自己表現として様態を産出する力である。そして神においては本質に存在が含まれるのだから、本質とは産出力である。すると本質定義の「在ることができる」「考えることができる」というのは産出する力を示していることが分かる。
そしてこの産出力は神の本質であるから、永遠相における形相的本質は滅びることがない。しかし持続相においては時間的存在として現実的本質は生成消滅するのである。
したがって定義2の意味は、個物の現実的本質は、個物を存在させる力であるとともに、除去されれば、個物が存在しなくなるような力であるということだ。
だから「本質に属するそれ」と婉曲に言われている「それ」とは力だと思う。
通常の理解では「本質」とは現象から区別された恒久不変のイデアのようなイメージなのだが、スピノザの「本質」とは、あるものを成り立たせている力ということである。
その力が持続相において時間的存在であるならば、本質が消滅することもあるのだ。
私は持続相においては現実的本質をもつが、永遠相においては形相的本質をもつ。私が死ねば私を存続させていた力である現実的本質も消滅するが、形相的本質は神の産出力の一部であるから永遠に存在する。定理8は存在しない個物の観念は、「形相的本質が神の属性の中に含まれていると同じように」神の無限な観念の中に包容されるとある。
このように解すると、現実的本質とは私を存続させる力であるから、コナトゥスであることが分かる。このことは後で出て来るのだが、定義2の本質定義の中に既にコナトゥスが予告されているのである。
スピノザによれば人間だけが生に執着するのではない、万物が存在することに執着するのである。それは永遠相における神の本質が産出力だからであり、持続相における現実的本質も同じ産出力であるがその力はコナトゥスとしての時間的存在であり生成消滅するのである。だから存在に執着していてもいつかは滅ぶのである。

定理11 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。

定理11から人間精神が始まるのだが、前に述べたように人間精神は諸観念によって構成されたものである。ドゥルーズはこれを「構成関係」les rapports qui se composent と言うのだが分かったようで分からない。
問題はこの「構成関係」がスピノザの体系でどういう意味をもつかである。やはり、これまでのスピノザの概念用語で説明すべきであろう。
私はこの「構成関係」こそが人間精神の現実的本質であると考える。その理由は「人間精神の現実的有を構成する」という言葉である。現実的有とは現実的本質のことである。
(神については「本質を構成する」という言い方がある)
そのように解すると「構成関係」は人間精神の現実的本質であり、コナトゥスとして自己を存続させようとする力であることが明確になる。だからその力=構成関係の下に、諸観念が全体として一つのアンサンブルとなるのだ。
さらに「構成関係」を永遠相でみたものが人間精神の形相的本質であり、持続相において人間が死んで「存在しない個物」となっても、人間精神の形相的本質は永遠に存在するのである。