『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その7)

第二部 精神の本性および起源について No5

この第二部は流し読みすると人間精神や記憶について奇妙な理屈を展開しているように思えるのだが、スピノザが考えていた精神や記憶は、常識とは異なるものであるから、まずは常識を捨ててかかる必要がある。定理17の系は表象に関するものである。

定理17の系 人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。

この定理の系の証明は、人間の身体は流動的な部分(電子も人間の部分であるから神経電流が例として考えられる)と軟らかい部分(細かい諸物体の結合体で形を変える部分)からなり、外部からの他の物体からの刺激によって流動部分が動きを変えると、軟らかい部分の形状が変化する。すると外部の物体がなくなっても形状変化した軟らかい部分に流動部分が衝突すると、あたかもなくなった物体が現在するかのように、身体を構成する物体の観念(=精神)は思うであろう、それが表象だというのである。
この痕跡に衝突する流動についての観念は外部の物体の「形状を再現しないけれども」「精神がこのような仕方で物体を観想する時に我々は精神が物を表象するという」のである。
一読するとコンピュータの磁気メモリのような記憶を連想するのだが、よく考えると、これは第一次記憶(物の知覚の記憶)であり、第二次記憶(物の知覚に基づいて感じたり考えたこと、つまり知覚との関係の記憶)ではない。だからスピノザは記憶ではなく正確に「表象」というのであり、本来の記憶については、次の定理18が扱うことになる。

定理18 もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう。

この定理はスピノザが「表象」と「記憶」をどのように区別していたかを明確にするものであり興味深い。定理17の系による表象とは知覚の痕跡であって記憶ではない。だが記憶とは単なる物の知覚の記憶ではなく、物の知覚に基づく関係の記憶なのである。ということは観念の観念であり、観念の連結なのだ。
この定理は「人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激された」ことを仮定しているが、このことの意味は、人間身体の構成関係が外部の複数の物体間の構成関係に同時に刺激されたことを仮定しているのである。このことは、人間身体の本質(構成関係)が他の諸物体の本質(構成関係)から刺激を受けて痕跡をもったことを意味する。
そして「その中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起する」の「他のもの」とは観念なのだ。つまり「一つの表象」(観念)について「他のもの」(観念)が連結するのである。この観念の連結が物の本性(構成関係)を含むのである。なぜなら複数物体から同時に受けた刺激の痕跡とは、その複数物体のグループの本性(構成関係)からだ。
つまり定理17の系と定理18との違いは、人間身体への単独個物の痕跡と複数個物の構成関係の痕跡との違いである。そして記憶とは、この構成関係の一部が表象されたときに、構成関係全体を想起することに他ならない。
スピノザはこの定理の意味を備考で次のように説明している。

それ(記憶)は、人間身体の外部に在る物の本性を含む観念のある連結にほかならない。そしてこの連結は精神の中に、人間身体の変状(刺激状態)の秩序及び連結に相応して生ずる。(定理18備考)

これまで説明してきたように「本性」とは構成関係である。だから「在る物」とは複数個物の合成体なのである。物体が素

粒子の合成体であるのと同じことである。
したがって物の本性を含む観念は、物の観念ではありえない。それは物の「構成関係」についての観念である。物の観念は構成関係の関係項であるから、本性(構成関係)についての観念とは物の観念についての観念である。「観念の連結」とはそういう意味である。
そして心身並行論により、それと同じ連結秩序が人間身体の物の秩序にも存在するということである。これが「人間身体の変状の秩序及び連結」ということである。
すると次に二つの問いが提起される。一つは「観念の観念」に対応する「物」とは何か。もう一つはそもそもなぜ観念や物は連結するのかである。この二つが分からないと心身並行論が分かったことにならない。
さて「観念の観念」に対応する物であるが、これが存在しないと観念側の過剰となる。素直に考えると物の構成関係(本質)が対応物であるとしか考えられない。人間の思惟活動には必ずそれに対応する物体の構成関係が存在するのであり、その限りで脳科学の知見は正しいのである。
そして観念や物がなぜ連結するのかについては、まさにその本質(構成関係)によるのである。この本質とはこれまで説明してきたように、神の産出力が時間的持続相において表現されたものである。
したがって確かに外部(それもまた神の変状である)の影響によって構成された本質(構成関係)であるが、ひとたび構成されると、それは生きている間はコナトゥスとして自らが原因となって他に影響を及ぼすことになる。
だから人間の思惟活動は外部からの受動だけではない、自らが原因となる限りでは能動的な側面もある。ただし、その能動とは外部から構成された本質に基づくものであり、スピノザの定義では自由とは本質に基づく必然的活動である。
こうしてみると神の本質=産出力が、観念の連結、物の連結を生み出すのであり、そのことが時間的持続層において精神や物の本質(構成関係を存続させる力)として表現されることが分かる。

以上は『エチカ』の解説であるが、以下は私の思いである。
スピノザは定理17備考においてペテロとパウロという二人の人物を例にとり、ペテロの観念はペテロの死とともに消滅するが、パウロがもっていたペテロの観念は痕跡として消えないというのである。
だが、パウロが「死んだペテロ」を思い出したとしたら、その思い出したことの記憶はいったいどうなるのだろう。ペテロはもはや存在しないのだが、存在しないペテロを思い出して泣いた記憶があるとしたら、それは存在しない個物からの痕跡だろうか。
スピノザは「人間身体の外部に在る物」というが、人間身体の内部にも「外部に在る物」があるのではないか。記憶がよみがえるとき、人間身体の構成関係の下にペテロの構成関係がよみがえり、それが再び新たな痕跡を残すのではないだろうか。
「人間身体の変状の秩序」という場合、その変状は身体外部だけでなく身体内部からも触発されるような気がするのだが、よく考えてみたい。