『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その8)

第二部 精神の本性および起源について No6

 

スピノザの公理の中には自明と思われないものもある。補助定理3の系の後に挿入された次の公理がそうだ。

 公理1 ある物体が他の物体から動かされる一切の様式は、動かされる物体の本性からと同時に動かす物体の本性から生ずる。したがって、同一の物体が、動かす物体の本性の異なるにつれてさまざまな様式で動かされ、また反対に、異なった物体が、同一の物体からさまざまな様式で動かされることになる。

最初この公理を読んだ時、自明でないというよりも意味不明だったのだが、それは「本性」の意味が分からなかったからである。

確かに物体Aが物体Bに衝突したとき、物体Bが動かされる様式は、静止したままAを跳ね返したり、逆にAに動かされるなど「さまざまな様式」で動かされる。その原因は物体AとBの「質量=慣性」によるのだから、物体の本性とは「質量=慣性」のことかもしれない。運動方向を示す公理2と合わせて、スピノザは「最も単純な物体」についての公理としているのだから、ニュートンのプリンキピア(1687年刊)に10年先立ってエチカ(1677年刊)において「質量=慣性」による運動法則を哲学的に予言していたことになる。

物理学では四種類の力(重力・電磁気力・強い力・弱い力)があるのだが、これらはポテンシャルエネルギーであって、二つの物体が衝突した時の運動エネルギーとは区別される。(もちろんポテンシャルエネルギーと運動エネルギーの和が保存される)

物体Aが物体Bを動かすとき、直接作用するのは運動エネルギーである。

すると運動エネルギーの正体は一体何か。ニュートンは力Fを質量m×加速度αとしたわけだが、要するに運動エネルギーの本質が何であるかは、観測される加速度と物体の動きにくさ(慣性)だけで定義されており、結局、質量とは動きにくさに帰着するようだ。

このことはスピノザが延長属性の本質(直接無限様態)を「運動と静止」としていることと合致するのである。

スピノザが神の本質を力能として説明するとき、その力は存在する力であり、これが時間的持続相において現れるときは、持続する力となる。だから物体の本性である「質量=慣性」とは自己保存する力であり、コナトゥスである。

「最も単純な物体」においては、その本質=自己保存する力は、動きにくさ(慣性質量)として現れ、「複合した物体」においては、諸物体の構成関係の自己保存力として現れる。そう理解すると、この公理の意味は明瞭になる。

 話が戻ってしまって恐縮だが、第二部についても最初に感じた読みやすさがまた怪しくなってきて、疑問だらけになってきたので、何度も元に戻り、疑問点を解消していきたい。

定理11 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。

 この証明で分からないのは人間精神を構成する観念が現実に存在する物の観念であるばかりでなく、「無限な物の観念ではない。なぜなら、無限な物は常に必然的に存在しなければならぬ。しかし人間についてそれを言うのは不条理である」というところだ。

だが、人間は無限を考えることができるではないか、と反論したくなるのだが、どうもスピノザの言う「無限」は通常考えられる「数の無限」とは異なるようだ。「無限な物は常に必然的に存在」するというのだから「神の無限」なのだろう。元々、スピノザは数自体を表象として想像的認識としているのだから、「数の無限」とは誤謬の無限のようなものである。すると「無限な物の観念」とは「神の観念」あるいは「神の属性の観念」であり、人間精神を構成するものではないというのも納得できる。

そしてこの定理の系も意味が分かる。

 定理11の系 この帰結として、人間精神は神の無限な知性の一部である、ということになる。したがって我々が「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」と言う時、それは、「神が無限である限りにおいてでなく、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて、あるいは神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言うのにほかならない。また我々が「神が人間精神の本性を構成する限りにおいてのみでなく、神が人間精神と同時に他の物の観念を有する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言う時に、それは「人間精神が物を部分的にあるいは非妥当的に知覚する」と言う意味である。

 長く引用したが、この系は、非十全な観念を扱う定理14~36を理解するうえで決定的に重要な系である。特にこの「神が無限である限りにおいてでなく」「神が人間精神の本質を構成する限りにおいて」「神が人間精神と同時に他の物の観念を有する限りにおいて」などの言い回しに慣れる必要があるが、なぜこのような持って回った言い回しをするのか。

それは定理11に関わるが、無限の永遠相と有限の持続相とを絶対的に区別しつつ、両者の関係を説明するためだろうと思われる。

もうこれは徐々に慣れていくしかないのだが、スピノザの存在観は現代人である私の存在観とは決定的に異なっていて理解しがたいところがあるが、無限と有限が絶対的に区別されつつ存在として同一(一義性)であるという存在観のように思われる。

したがって無限とは有限物の無限数の集合ではない。無限な物は必然的に存在していて、有限物は無限と絶対的に区別されつつ、存在としては無限な物と同一だと言っているようだ。確かに現代人としては自分の言っていることがワケが分からないのだが、スピノザの文言からはそのように解される。

例えば我々が様態として神の変状であるということは、有限物が無限であると言うのと同じことである。また、各々が絶対的に区別される無限の属性が神に帰属するというのも、絶対的な区別が存在的には区別されないということであり、同じ存在観を示している。

だが、いくら存在としては同一であっても、やはり有限がそのまま無限というのは論理矛盾である。そこで無限の神を「無限である限り」と「人間精神の本質を構成する限り」(つまり有限である限りということだ)とに分けるのであるが、このことは存在として同一の神を絶対的に区別するということである。存在として同一の神を無限の属性により絶対的に区別することも、このことと同様である。

『エチカ』を読む際は、こうした存在観が常に前提されていることを確認しておかないと、スピノザの言うことが二枚舌のように思われるかもしれない。二枚舌と言うよりは過剰な厳密と言うべきかもしれないが。