『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その9)

第二部 精神の本性および起源について No7

定理14~36は「非十全な観念」を扱う箇所であるが、これほど「非十全」を執拗に説明しているのは、通説を「非十全」として批判することにより、「十全な観念」に至るためであろう。すると次に提起される疑問は、人間精神の何がどうしてどのように「非十全」であるのか、またどうやって「十全な観念」に至るのかということである。
このためには、前提となる人間精神の仕組みをスピノザがどう考えていたか明確にする必要がある。

定理16 人間身体が外部の物体から刺激されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。
定理25 人間身体のおのおのの変状(刺激状態)の観念は外部の物体の妥当な認識を含んでいない。

この二つの定理は流し読みすると、矛盾したことを言っているように思える。
つまり人間身体の刺激状態の観念は、人間身体の本性と外部の物体の本性の両方を含んでいるのである。にも関わらず、外部の物体の妥当な認識を含んでいないというのである。
つまり「本性」の認識と「妥当な認識」とのどこが異なっているのだろうか。
定理25の証明をよく読むと分かってくるのだが、具体例でみていくことにしよう。
例えば野球ボールが当たって痛いという感じと、ゴルフボールが当たって痛いという感じは異なる。このことから二つのボールの本性が異なることが分かる。
だがボールの立場に立って、ボールが人間に衝突したときにボールが感じることは人間には分からない。さらに人間から離れてボールが感じていることや考えていることは人間には分からない。
(前に述べたように、物体はすべて思惟属性の様態をもつが、人間には分からない。分からないから「不活性」であるように見える)
スピノザによるとボールが持つ観念は、ボールに変状した神がもつ観念だということになる。そのような観念は人間精神には含まれない、だから「外部の物体の妥当な認識を含んでいない」のである。
つまり定理16の外部の物体の本性は、刺激状態のみに関わる本性であり、刺激状態を離れて存在する物体の本性ではないということである。

定理25証明(抜粋) 外部の物体がもともと人間身体と関係のない個体である限りにおいては、それの観念あるいは認識は、神が他の事物(略)の観念に変状したと見られる限りにおいてのみ神の中にある。

雑に読むと神がボールの観念・認識を持っているように勘違いするのだが、そうではない。無限の神からは有限物はでてこない。神がボールの観念に変状しているのである。その限りにおいてボールに変状した神が観念と認識を持っているのである。
前回触れた定理11の系によると
「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」=「神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」である。
これは言いかえれば人間精神に変状した神が知覚すると言っているのである。
そのことが、人間が自分で知覚することと等しいことになる。
スピノザにおいて「人間精神」はなんら特別のものではない。「諸個体の観念」と同様である。したがって「ボールの観念」とは、「ボールの精神」でもある。ボールの精神に変状した神が知覚するのである。人間精神は自分の痛みを知るのみで、ボールの痛みを知ることがないから妥当な認識ではないのだ。
こうしてみると、神の様態である人間がなぜ全知でないかも分かる。人間は人間に変状した神であって、ボールに変状した神ではないからだ。(こんなことを考えていると孤独を感じる。こんなものは絶対に誰も読まんぞ・・・)

定理13備考(抜粋) 人間にあてはまると同様その他の個体にもあてはまる。そしてすべての個体は程度の差こそあれ精神を有しているのである。

しかし、そうなると人間身体もまた多くの外延的諸物体で構成されているのではないか。
人間身体を構成する素粒子の痛みを知ることができないのに、なぜ「人間身体の観念」=人間精神は、自分の痛みを知るのか。次の定理がこのことを説明している。

定理19 人間精神は身体が受ける刺激(変状)の観念によってのみ人間身体自身を認識し、またそれの存在することを知る。
定理19証明(抜粋) 人間身体はいわば絶えず更生されるためにきわめて多くの物体を要するから(略)人間身体の観念は、神がきわめて多くの個物の観念に変状したと見られる限りにおいて神のうちに在るであろう。(略)言いかえれば(略)人間精神は人間身体を認識しないのである。これに反して、身体の変状(刺激状態)の観念は、神が人間精神の本性を構成する限りにおいて神の中に在る。

この証明をよく読むと、心身並行論により人間精神とは人間身体の観念であるということがいかに単純な考えであるかが分かる。
人間の身体も精神も多数の個物によって構成されたものとしてみるとき、事情は複雑になってくる。
この証明にあるように「人間身体の観念」は、きわめて多くの個物(素粒子)に変状した神であり、「人間精神は人間身体を認識しない」のである。
このことは、人間精神は自分を構成している観念を知らないことを意味する。いわば分子状無意識によって構成されているのだ。
すると次に提起される問いは、この証明の人間精神が認識するという「身体の変状(刺激状態)の観念」がいったい何を意味するかである。
人間身体を構成する個物が人間身体の外へ流出したときは、その個物は外部の物体となる。例えば流出した血液は外部の物体である。
このことは人間身体を構成する個物が受ける刺激状態は、外部の物体が受ける刺激状態と異ならないということである。ただ、人間の構成関係にあるか否かが違いとなる。
すると確かにこの「身体の変状(刺激状態)の観念」とは、人間身体を構成する個物が受ける刺激状態であるが、単なる個物ではなく、構成関係とともにある個物の刺激状態である。
この点はスピノザがあまり詳しく説明していないので推測するしかないのだが、複合物体の場合はそれを構成する個物ではなく、構成関係自体が刺激を受けると言い換えても良いのではないかと思う。つまり人間精神は人間身体の本質を認識しないが、刺激の本質(構成関係)を認識するのである。
もちろん本質(構成関係)が変形するというのは妙だ。だが、本質も形相的本質(永遠相)と現実的本質(持続相)に区分されるのであり、スピノザも現実的本質は個体とともに運命を共にすると述べている。すると個体の現実的構成関係(現実的本質)が、刺激によって一部欠損したり、変形したりすることも考えられるのではないか。
このように考えると、外延的個物によって構成された人間身体が意識を持ちうるのは、人間という一箇の構成関係(人間の現実的本質)に根拠があるのではないかと思われる。
前に述べたように外延的個物は自発的に人間という構成関係に入るのではなく、外部から強制されて入るのである。したがって刺激状態のない構成関係はありえない。刺激がなくなれば構成関係もまた解体するのである。
そして意識は、構成関係の下にある個物の刺激状態のみを認識し、刺激状態から離れた個物つまり人間身体それ自体の本質を認識しないのである。意識が想像的認識であり、非十全な認識であることの根拠は、ここにあるといえよう。