『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その10)

第二部 精神の本性および起源について No8

この第二部を読んでいるうちに、次第にスピノザの言う「人間精神」が謎めいてくるのを感じる。
人間精神は身体を構成する諸個体の観念によって構成されるのだが、しかし、人間精神は自分を構成する諸個体の観念を認識できないのである。

人間精神は人間身体自身を認識しないから、(略)人間精神はその限りにおいて自分自身を認識しない。(定理23証明抜粋)

つまり人間精神は身体を構成する諸部分を認識しないと同時に、その帰結として自分を構成している部分を認識しないのである。このことは、現代風にみれば臓器感覚が曖昧であることや心が無意識によって成り立っていることなどから、概ね納得できる。
納得できないのは、では「人間精神」とは無数の観念の集合なのか、無数の観念とは別個の観念なのか、これである。
このことはスピノザのいう「観念の連結」が一体何を意味するのかが未だによく分かっていないことを意味する。
思えばスピノザは「関係」概念を表立って明確にしていない。スピノザの「関係」概念としては、「因果関係」以外に「連結」「秩序」「構成」「組織」「観念の対象」「観念の観念」などがあるが、それらは「因果関係」と異なるのか否か、異なるとすればどの点が異なるのか、このことが明確でない限り、諸観念によって「構成」される「人間精神」が分かったことにはならないのだ。
だが、それはスピノザだけではない。およそすべての哲学者が当然のこととして使用している「関係」概念が、いかなるものであるか、実はそれほど明確ではないのである。
あらためて「関係」とは何かと問われて、明確に説明できるだろうか?
「一対一対応」というのは「関係」を「対応」に置き換えているに過ぎない。「関係」概念を自明の前提として、そのあり方(一対一)を定義しているに過ぎない。
そこで私は一つの仮説を立てることにした。
それはスピノザにとって関係とは「因果関係」以外に存在しないという仮説である。
私達が通常理解している「因果関係」とは持続相における作用原因と結果との時間的因果関係であるが、スピノザにとっての「因果関係」とは持続相だけでなく、永遠相における自己原因と結果との無時間的永遠としての「因果関係」もある。(自己原因は結果を含むのだから無時間的因果関係である)
そして「連結」「秩序」「構成」「組織」「観念の対象」「観念の観念」などの諸関係概念は、すべて永遠相か持続相における因果関係であると解釈するのである。
私達は普段あまり意識せずに「関係」という言葉を使用しているが、つきつめて考えるとそれらの「関係」は常に「本質的関係」ではないか。
スピノザにとって「本質」とは自己原因としての神の産出力である。したがって、時間的因果関係以外の本質的関係を、永遠相における自己原因の「無時間的因果関係」とするのは無理のない解釈ではないかと思う。

観念の観念というものは実は観念-その対象との関係を離れて思惟の様態として見られる限りにおいて-の形相(本質)にほかならない(定理21備考)

この「思惟の様態として見られる限りにおいて」とは、まさに「観念の観念」が自己原因(神)の様態であること、つまり「無時間的因果関係」の表現(結果)であることを意味している。
さらにスピノザの「表現」とは、永遠相における自己原因の結果のことである。それは自己原因に含まれるものとしての無時間的結果にほかならないのだが、「結果」が持続的時間を連想させるので、「表現」という用語に代わったに過ぎない。だから「表現」という言葉が出て来ると、それは自己原因の無時間的結果と考えればよいことになる。
神の創造は永遠のものとして無時間的に凍結されたホログラフのようなものである。いわば無限の持続相全体が、「全体として一挙に」(福居純)創造されているのである。
ところで「観念」というと私はすべて無時間的という印象をもつのだが、スピノザは「観念」についても永遠相と持続相の二面がある、つまり観念の原因も二つあると考えていたようである。特に「観念の秩序」という場合は、「物の秩序」と照応するものとして持続相の因果関係を考えていたように思われる。
したがって延長物体が作用原因→結果という持続的因果関係をもつように、観念もまた「AならばB」というように推論的因果関係をもっている。これは一見すると無時間的関係のように見えるのだが、Aという前提による結果なので前後関係がある。
したがって観念の原因にも持続相における推論的因果関係としての原因と、永遠相において観念が自己原因(神)による様態であるという無時間的因果関係としての原因の二つがある。
定理21備考の「その対象との関係を離れて思惟の様態として」というのは難解だが、私は次のように考えている。
観念が観念対象をもつと、その観念は想念的本質をもつ(つまり考えている内容をもつ)ことになり、そのことは他の観念を生じさせる原因となる。これは生成消滅する持続相における推論的因果関係である。しかし、観念が観念対象との関係を離れて、観念自体としてとらえられると、それは神の様態として観念の形相(本質)となる。これは自己原因の表現的結果としての無時間的因果関係である。
以上のように考えると、「人間精神」を諸観念による構成関係とすることの意味が明瞭になる。
この「構成関係」とは、部分の集合でもなく、推論関係でもない。したがって、部分の想念的本質(部分の観念が考えている内容)を含まないのだ。
この「構成関係」は推論関係ではなく、自己原因の無時間的因果関係なのだ。だから、人間精神は自分を構成する部分観念の想念的内容を知らないのである。
では人間精神が知っているものとは何か。
スピノザによるとそれは身体の変状(刺激状態)の観念ということだが、例えばボールの球が当たったとき、私は私の痛みを感じるのであり、私を構成する細胞個々の痛みを感じるのではない。この「私の痛み」とは何か?
部分観念によって構成された人間精神もまた一箇の観念である。だから「私の痛み」とはこの一箇の観念が感じることであろう。それは構成されたものとしての観念が感じる身体の変状である。
ではこの人間精神(一箇の観念)はそれを構成する諸観念からどのように生じたのか?
繰り返しになるがそれは推論的因果関係ではなく、構成する諸観念に変状した神が自己原因となって人間精神(一箇の観念)を産出したのである。
スピノザが何度も繰り返していることだが、無限の神からは無限物しか生じない。私が神の様態であるからといって神から直接生じるのではなく、私を構成する諸観念に変状した神から生じるのである。
だから、構成関係こそが人間精神の本質であり、神の産出力を表現する一箇の観念なのである。それは持続相においては現実的本質として滅びるが、永遠相において形相的本質として残るのである。