『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その11)

第二部 精神の本性および起源について No9

さていよいよ「共通概念」であるが、その名称から受ける印象と異なり、私が通常考えている「概念」とはまったく別物のようだ。
共通概念は人間が「非十全な認識」から「十全な認識」へ至るうえで不可欠のものである。
すると次に提起される問いは、人間が元々「非十全な認識」を持つ運命にあるのであれば、なぜスピノザは「十全な認識」をもって『エチカ』を書くことができたのかである。
スピノザに言わせれば、「それは私が人間を捨てたから」と答えるかもしれない。さらに、「人間を捨てたから、誰もがもっている共通概念に特別な意味を見いだすことができた」ということであろう。
さて比喩的に「人間を捨てた」ということの意味は、次の定理で示されている。

定理37 すべての物に共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にもあるものは、決して個物の本質を構成しない。

言い換えれば共通概念は私の本質を構成しないということだ。そして人間が「十全な認識」に至ることができるのは、私を構成しない共通概念が私の中にあるからである。
ではこの「中にある」とはどういう意味か?「構成する」とどう違うのか?
別に難しいことを言っているのではないと思う。
例えば素粒子は私の中にあるのだが、私の構成関係(本質)を素粒子が構成しているのではない。素粒子はあくまで構成関係の素材であって構成関係自体とは異なるものである。そういう意味で万物に共通する素粒子は私の中にあるが、私の本質を構成しない。
実際、定理37の証明には定義2と補助定理2とが援用されているのだが、それは物体が延長属性として共通点をもつということである。
同様に人間精神は部分的諸観念で構成されているが、それらの諸観念は万物に共通する非人間的な諸観念であって、私という人間精神の構成関係の素材であるが、構成関係自体とは異なるものである。
そして、このことは私を延長属性や思惟属性の様態としてみる限り、その様態である諸物体や諸観念は私の本質(構成関係)を構成しないことを意味する。いわば私を神の様態としてみると、その時、私の本質は解体するのである。私を構成するのは共通物(素粒子、諸観念)そのものではなく、それらの共通物に変状した神が自己原因として産出した構成関係(本質)であるからである。
例えば「AならばBである」という命題(観念)Cは、観念Aと観念Bの思想内容を含んでいる。そういう意味では観念Cは観念AとBから独立したものではない。
だが人間精神はこの観念Cには該当しない。なぜなら自分を構成する観念AとBの思想内容を知らないからだ。言い換えれば人間には細胞の気持は分からない。人間精神は、観念Aと観念Bから新たに生じた(構成された)独立の観念Cであり、観念AとBに変状した神の自己表現(結果)としてのCである。それが私の本質(構成関係)である。
このことは何ら私の優位性を意味しない。むしろ私とは原因を知らずに構成された結果(表現)にすぎないのである。だが原因は知らないが、私が様々な諸物体・諸観念から構成された結果であると知っている限りでは、第一種の認識(表象による認識、いわば結果のみの認識)も誤謬ではないとスピノザは言っている。なぜなら、そのことは私の本質(構成関係)とは別に、構成の素材としての共通物が私の中にあることを知ることであり、そこから出発して私だけでなく万物の共通概念を得ることができるからである。
問題は『エチカ』において、この共通概念の根拠として説明されているものが延長属性による共通点のみであることだ。だから共通概念の考え方は理解できても、それが具体的に何であるかが今一つ分からないのである。多くの解説書を参照したが、そのことをズバリ明快に説明していたのは、朝倉友海著『概念と個別性』であった。ここに書いていることは、この本からインスパイアされている。
『エチカ』の説明によると、ないないづくしではないが、共通概念が一般的概念と異なることが示されている。つまり一般的概念とは第一種の認識である表象像が多数オーバーラップしたものに過ぎない。だから刺激状態が各人によって異なるのだから、人によってオーバーラップが異なることになる。そこで、一般的概念としての人間は、人によって「笑う動物」「羽のない二足動物」「理性的動物」などと分かれるのである。
だが共通概念としての人間がいかなるものであるかは示されていない。
するとスピノザは一般的概念を「第一種の認識=表象による想像的認識」として批判するだけで、その代案を示さなかったのであろうか?
実はスピノザはすでに共通概念としての人間が何であるかを示していたのである。
それこそが「人間精神は、身体が受ける刺激(変状)の観念によってのみ人間身体自身を認識し、またそれの存在することを知る」(定理19)である。
なぜこれが共通概念かといえば、この定義は人間だけでなく、動物にも共通に適用できるからである。またスピノザの考えでは物体一般にも適用できるのであり、人間と動物と物体との違いは程度の差に過ぎない。「人間とは理性的動物である」との違いは明瞭であろう。人間と動物とを区別するのは外界からの刺激に対する身体の変状能力のみである。

定理13備考(抜粋) 人間にあてはまると同様その他の個体にもあてはまる。そしてすべての個体は程度の差こそあれ精神を有しているのである。

こうしてみると、スピノザのいう「概念」とはすべて「共通概念」なのであり、究極的には同一属性による共通点を根拠としているのであるが、それを根拠として演繹される様々な概念は一般的概念ではなく共通概念なのであり、あらためてそれが何であるかを示す必要はないのである。つまり神から演繹される『エチカ』体系が共通概念そのものなのだ。