『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その12)

第二部 精神の本性および起源について No10

しかし、よく考えてみると私は概念というものについてあまり本気で考えたことがない。例えば「神」とか「人間」という概念については、まあ、いろんな人がいろんなことを言っているよね、という感じで、自分自身がそれらの概念に定まった意味を読み取ることはない。
だがスピノザの共通概念は、少なくとも共通概念を有する者の間で意見が食い違うことなどありえないのだ。意見が異なればそれは共通ではない。だからそれは自然科学者が有する概念に近いものだと言えよう。
自然科学はスピノザのいう「数」という想像的認識に基づくのだから共通概念ではなく第一種の認識ではないかという疑問が生じるかもしれない。
だが自然科学者はその点について思い違いはしていないのであって、例えばファインマンは数学が想像上のものであると『物理学』において述べている。自然科学者は数学を手段として万物の共通概念を探究しているのであって、極端なプラトニズムの信奉者でない限り数学を現実と取り違える者はいないだろう。スピノザもまた書簡で化学実験の提案などもしており、スピノザ思想と自然科学との親和性は疑いようがない。
前回、共通概念の具体例としてスピノザによる人間精神の定義に触れたが、朝倉友海著『概念と個別性』におけるこの指摘を参考にして、そもそも共通概念が何であり、またどのようにして共通概念を得るのかその方法論について考えてみよう。共通概念が何であるかは次の定理が示している。

定理40 精神のうちの妥当な観念から精神のうちに生起するすべての観念は、同様に妥当である。

この定理によって共通概念が形成されるのであるから、共通概念は単なる命題ではなく、観念の体系である。「妥当な観念」とは、次のとおりである。

定義4 妥当な観念(十全な観念)とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念のことであると解する。

この定義は分かりにくいが、前回説明したように、「対象との関係を離れて」つまり想念的本質(思っている内容)を離れて、観念それ自体(形相的本質)としてみると、それは自己原因である神の思惟属性の様態であること、つまり神の本質表現(自己原因の結果)であること、そういう「内的特徴を有する」観念、それが妥当な観念だと言っているのである。
神の本質表現であるから、権能と力能が一致しているということで「真の観念」(対象と一致した観念)であることは当然である。
そうした「妥当な観念」から出発して形成された観念の体系が「共通概念」である。
ということは、神の属性である延長属性と思惟属性の各々の一義性を前提として演繹された諸概念は、すべて共通概念であるということであり、「人間精神」の概念がそれを集約していることになる。このことは『エチカ』それ自体が共通概念だということを示している。
したがって、共通概念を得る方法は、『エチカ』の方法に従い、スピノザの公理・定理に基づいてさらに何が帰結するかを自分で探究してみることであろう。
第二部の最後の二つの定理は、人間精神と意志を扱っている。

定理48 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他によって決定され、このようにして無限に進む。

この定理をよく読むと、スピノザは自由意志を否定しているのであって、意志それ自体は否定していないことが分かる。自由意志とはある特定のシチュエーションから離れて、超越的な立場で決定をくだすことであり、精神の中にそのような絶対的な意志はない、精神の中にある意志は、常に他の原因によって決定された意志だというのである。
これはすべてを必然とみるスピノザ思想の当然の帰結であり、なんら驚くにあたらない。
驚くべきは、ではその決定された「意志」とは一体何か、それを次の定理が解明していることである。

定理49 精神の中には観念が観念である限りにおいて含む以外のいかなる意志作用も、すなわちいかなる肯定ないし否定も存しない。

「観念以外の意志作用はない」ということは少なくとも観念の意志作用(肯定と否定)は存在し、それが意志だということである。

例えば三角形の内角定理の観念とは、三つの角の和が二直角に等しいことを精神に肯定させる(意志させる)ことである。そしてこの肯定は、三角形の観念を原因としている。三角形の観念という原因がなければこの肯定(意志)もない。ゆえに観念の肯定は、決定された肯定ということになる。そしてこの肯定が「意志」であり、それ以外に意志はないというのだ。
だから何かを欲するというような通常考えられている「意志」は原因の認識が欠けた誤謬であり、「意志」ではないのである。我々はなぜ欲するかを知らずに、それが自分の意志だと勘違いしているのである。
などとスピノザの入門書などには書いてあるのだが、私が知りたいのはそんなことではない。たとえ原因が分からなくても、また他から強制されたものであろうと、とにかく私が何らかの対象を欲しいと思っているのは確かであり、スピノザも「決定された意志」の存在を否定していない。それなら、なぜ意志が、観念の肯定に限定されてしまうのか、これである。
その理由はスピノザが延長属性と思惟属性を絶対的に区別していることにあるようだ。
つまり思惟属性の様態である観念は、延長属性とは異なるのであり、延長対象の表象である観念を延長対象と取り違えてはならないのである。
持続相において観念が相互に原因となり結果となるという因果系列は、したがって延長対象による因果系列と並行しているだけで、観念と延長との間には何の因果関係もないのである。
したがって「精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され」という場合の「このことまたはかのこと」とは、延長対象ではなく観念なのである。だから観念の肯定が「意志」となるのだ。
なるほど、だがしかし、その観念が「綺麗な女性」であるとしたらどうか?
それこそが延長対象と観念とを取り違えているということである。「綺麗な女性」の観念とは延長対象ではなく、神の思惟属性の有限様態としての観念である。
私は延長対象としての「綺麗な女性」から受ける刺激(視覚だが)についての観念を知るのみであり、それを身体の変状についての観念として喜びの感情が生じているだけであり、それを「意志」と勘違いしているのである。「綺麗な女性」の観念については何も知らず、したがって私の精神は何も意志していないのである。
確かにスピノザの言うとおり、知らないことを肯定し意志することはありえない。