『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その13)

第三部 感情の起源および本性について No1

まだ第二部の理解は充分とは言えないが、とにかく『エチカ』全体を読み通してから、また再度考え直してみたい。このため第三部へ進むことにする。精神はさておき、少なくとも私には感情があることは確かだ。

定理1 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。

この定理は第二部の次の箇所を再確認したものである。やや長いが第二部で最も重要な箇所なので引用しよう。

精神は物を自然の共通の秩序に従って知覚する場合には、言いかえれば外部から決定されて、すなわち物との偶然的接触に基づいて、このものあるいはかのものを観想する場合には、常に自分自身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当な認識を有せず、単に混乱し<毀損し>た認識を有するのみである。これに反して内部から決定されて、すなわち多くの物を同時に観想することによって、物の一致点・相違点・反対点を認識する場合にはそうでない。なぜなら精神がこのあるいはかの仕方で内部から決定される場合には、精神は常に物を明晰判然と観想するからである。(第二部定理29抜粋)

このことから「身体の変状(刺激状態)の観念」が「非妥当な観念」であり、神の延長属性の様態としての物体についての観念が「妥当な観念」であることが分かる。
物体を神の延長属性として観想することにより、精神が「内部から決定」されることになるのは何故か?
延長属性と思惟属性とは同一実体(神)の二側面であるから、物体を延長属性の様態として観想することは、観念を思惟属性の様態として観想することでもあるからである。つまり「内部から決定」とは、同一属性の持続相における因果系列のことである。
だから人間精神は、身体の変状(刺激状態)の観念しか持たないならば非妥当な観念しかもちえず、したがって常に受動的であらざるを得ないのだが、なぜか物体を延長属性の下で認識することができる。このことは同時に観念を思惟属性の下で認識することでもある。さらにこれらの属性は神の属性であるから、そうした観想は「妥当な観念」であり、「内部から決定」されたものとして能動的に「必然的に働き」をなすのである。
以上のように精神の能動・受動に関する定理から始めて、感情の根源である衝動の定理が続く。

定理9 精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおいても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め、かつこの自己の努力を意識している。

この「自己の有」への固執がコナトゥスであるが、神の本質である産出力が持続相において生成消滅の因果系列として現れるとき、その本質(産出力)は、有限個物が存続する間だけ自己を維持しようとする力として現れる。
「この努力が精神だけに関係する時には意志と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には衝動と呼ばれる」(定理9備考)
ここでは「意志」の意味が第二部と異なっているようにみえるが、やはりこの「精神だけに関係する」意志は観念の肯定である。つまり「内角定理」を肯定することは精神の自己存続である。否定すれば精神は崩壊するであろう。
スピノザの言葉は正確であって、衝動は身体だけに関係するのではなく、「精神と身体とに関係する」のである。つまりこの場合の「精神」とは「身体の変状(刺激状態)の観念」である。
したがって「綺麗な女性」をみて感じるのは「身体の変状(刺激状態)の観念」であって、「精神だけに関係する」意志ではないのだ。それは受動的精神であって能動ではない。
話は飛ぶが、佐藤優が『人生相談(個人編)』において、「2回抜いてから女性を選べ」とアドバイスしているのは適確な助言であって、若い男性は1回抜いたぐらいでは「非妥当な観念」から逃れることができないのである。

定理10 我々の身体の存在を排除する観念は我々の精神の中に存することができない。むしろそうした観念は我々の精神と相反するものである。

これは一見、自殺の不可能性を主張しているように見える。しかし、現実に自殺はある。
だが、スピノザの考えでは自殺は人間精神の決意によるものではなく、延長物体としての身体の因果関係による死である。思惟属性と延長属性との間に因果関係はない。
人間精神は身体がなにをなし得るのか知らないし、また身体が自死する原因も知らないのである。自死もまた厳密には、他の延長物体からの影響による他死である。
自殺の決意とみられる「人間精神」は、身体の自死過程と並行した思惟の動きである。
だからスピノザが言っているのは、自殺は他殺であるということだ。論理的にそうなる。
だがスピノザの感情論が解明しているのは、いかにもユダヤ人らしい楽天的な現世肯定的な感情であり、この感情論で殉教や自己犠牲やドストエフスキーのような矛盾した複雑な諸感情を解明できるのか一抹の不安を感じる。第三部を読み通してから考えてみることとする。