『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その14)

第三部 感情の起源および本性について No2

定理4 いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。

スピノザの論理からすると人間精神は原因なくして自ら消滅を望むことはありえないのである。自殺者から自殺に至る原因をすべて取り除けば、自殺することはありえないだろう。
したがって自殺の決意は状況を超越した絶対的決意ではない。「華厳の滝」の藤村操や芥川龍之介自死が人々に衝撃を与えるのは、原因のない精神の自死のように見えるからであるが、よく考えてみるとそのような哲学的自殺に精神の能動性があるとは思われない。
スピノザの論理に従うと、自殺とは外部の原因による精神の受動的反応であって、人間の本質から必然的かつ能動的に生じるものではありえないということになる。
すべてを作用因果系列の必然とするスピノザの世界では、滅びるという結果には必ず外部の作用原因があるのだから、この定理は自明である。問題はそのことから何が帰結するかである。
この定理は自殺の否定を神の命令としてではなく、人間の本質(存在を維持する力)として主張しているのであり、私はそこにスピノザによる人間本質の絶対的肯定を感じる。

定理6 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。

この「自己の有に固執」が「コナトゥス」であるが、この定理の証明は、これまで述べてきたように個物が神の産出力の表現であることに基づいている。この産出力は永遠相においては無限であるが、持続相においては個物相互の原因・結果としての時間的産出過程となる。個物は常に他の個物の結果であると同時に原因でもある。このことは産出力が個物において有限になると同時に、原因である他の個物からの影響を受けない限り、存続するということであり、これが自己の有に固執することである。
次の定理で、この「自己の有に固執しようと努める努力」を、その個物の現実的本質としているのだから、スピノザの論理では、存在と本質が、産出力によって結びつくことになる。(ドゥルーズが「力」を強調するのは、スピノザの論理に根拠があると思われる)
スピノザの「本質」は産出力としてそこから「必然的にいろいろなことが生ずる」(定理7証明)のであり、それ「以外のいかなることをもなしえない」のである。

定理11 すべて我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものの観念は、我々の精神の思惟能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する。

この定理は後に「喜び」と「悲しみ」の基礎となるのであるから重要である。(スピノザは総ての感情が、衝動・喜び・悲しみの三つの複合であるとしている)
証明は心身並行論を前提とすれば自明であるが、問題は「活動能力」の増大・減少・促進・阻害の意味である。
「我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる」(定理11証明抜粋)とあるが、私には言っていることの意味が分からない。
完全性と実在性は同一である(第二部定義6)であるから、精神は刺激によってその実在性が大きくなったり小さくなったりするというのである。これは何を意味するのか。
つまり私がここで問題にしたいのは、この定理の「思惟能力」とはコナトゥスと同じなのか否かであり、否であるとすればそれは何かである。
三角形の「内角定理」を肯定することは精神の存続であり、コナトゥスである。コナトゥスは「意志」であり、「意志」とは観念の肯定だからである。このように精神のコナトゥスとは個々の観念を肯定することである。これに対し「思惟能力」とは、精神を構成する個々の観念を増大させる力ではないだろうか。
人間精神は様々な外部の原因によって刺激され、多くの観念によって構成されるのである。
幾何学だけに限定しても多くの定理があり、さらにそれは増大しつつある。そしてより多くの読書や観察をして(つまり刺激を受けて)より多くの観念を得ること、これが思惟能力ではないか。
このように考えると、精神がより多くの観念によって構成されることは、より多くの実在性を得ることであり、それはより大なる完全性(定義6)へ移行することになるのである。
そしてそれが「喜び」の感情だというのだ。
さらにこのことは身体においても同時並行的に生じているのである。本を読むことは観念を増大させると同時に、身体の活動(視覚刺激、記憶など)でもある。スピノザは同時並行と言っているのであって、両者に因果関係はない。私の身体は原因も分からずただ、スピノザの『エチカ』を手に取り、眼で活字を追うのである。実際、私はなぜ『エチカ』を読むのかその理由が分かっていない。ただ、身体側の活動と同時に、より多くの観念を得ているだけであり、すべては心身同時並行の因果関係だということである。
「身体の活動能力」の増大については、それが何を意味するのか、よく分からない。この辺については江川隆男著『アンチ・モラリア』が詳しいようだが、あの本はスピノザ以上に難解である。
今のところは例えば視力が増大すれば、もっと楽に本を大量に読めるし、聴力が鋭敏になれば音楽も深く楽しめると思う程度の理解であるが、ここが明確に分かっていないと『エチカ』を分かったことにはならないので、よく考えてみることにする。