『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その1)

およそ哲学に関心のある人なら『存在と時間』は既読であることを前提として、ここでは熊野訳を読んで初めて気がついたことを中心に触れたい。
ハイデッガーがなぜギリシャの古代存在論におけるロゴス(レゲイン)に注目したのか、その理由について本書では次のように指摘されている。

語ること(レゲイン)は、或るものをそのものにそくして現在化することであり、そこでもまた時間の問題が登場している(30頁梗概)

まあ、知っている人には当たり前かもしれないが、語ることが現在化として時間に関係していることに私は今回初めて気がついたので、この指摘によりロゴスが時間と関係することが明瞭になった。ロゴスというのは、物事を現在化することで、そのものを存在へともたらすのだ。
ハイデッガーのいう古代存在論の影響というのが今一つ不明瞭だったのだが、注解のように古代存在論という代わりに、アリストテレスの時間論という形で説明されると、問題がよりクリアになる。存在と時間というカップリングにハイデッガーがこだわる理由も見えてくる。ロゴスそれ自体が語り(レゲイン)として時間と関係しているからである。さらに「ロゴスを持つ動物」を「現存在」とする理由も明瞭になる。これまでバラバラに理解していたことが、著者の指摘により繋がっていくのが実感できる。

「最高類概念」としての「カテゴリー」が多様なありかた(Mannigfaltigkeit)を示すのに対して、存在には或る「統一性Einheit」(ひとつであること)が帰属することをみとめ、その統一性を「類比による統一Einheit der Analogie」とみなしていた(77頁注解)

ハイデッガーによるとアリストテレスは存在を「類比による統一」とすることで、「存在の問題を原則的にあらたな土台のうえに設定した」としているのであるが、それほど重要であるにも関わらず「類比による統一」の意味がよく分からなかった。熊野訳の注解により、これがカテゴリーの多様なありかたとの対比として理解できる。訳注ではスコトゥスの存在の一義性にまで触れており、さらに詳しい。そこは奥が深いのであるが、あまり煩瑣にならないよう適度に抑えられてもいる。

次段落以下を理解するためには、プラトンのいう「探究のアポリア」を念頭に置いておく必要がある。(85頁注解)

探究のアポリアとは、知っているものを探究することはありえず、知らないものを探究することもありえない、ということであるが、「存在への問いの形式的な構造」のところで、このような注解が入ることで、段落の移動に間を置いて少し考えることができる。
ハイデッガーによると、この形式的な構造とは「問いかけられているもの-問われているもの-問いもとめられているもの」であるが、「存在者-存在-存在の意味」がこれに対応している。そして、範例的な存在者として現存在の優位性を導きだすハイデッガーのやり方があまりにも鮮やかなので、あたかも推理小説の真犯人が見つかったように、これで形式的構造が完結したのだと私は誤解していた。
だが熊野訳の注解によって、この中間の「問われているもの-存在」が「ばくぜんとした存在了解」であることに気がつく。逆にばくぜんとしているからこそ、存在を知っているのに知らないということで「探究のアポリア」を回避しうるのだ。したがって「存在への問いの形式的な構造」は完結していない。問いが問いとして成り立つのは未完結だからだ。
すると、ハイデッガーがなぜその後、現存在の存在の意味を直接問わず、現存在の世界性とか空間性とか、あまり存在問題とは関係なさそうな探究を続けるのか、その理由が明快になってくる。それは問われているものである「ばくぜんとした存在了解」について道具存在などにより見通しをよくしているのだ。したがって現存在の構造分析は、存在の意味の直接的な解明ではなく、「存在への問いの形式的な構造」の仕上げとなっていることがよく分かるのである。

「存在への意味への問い」に先だって、この現存在の存在を「適切に解明」しなければならないのである(95頁注解)

以上のように解すると、この「先だって」解明することの必要性が、問いの形式的な構造を仕上げる必要性として理解できる。

現存在が有する存在了解は、したがって、「世界」の理解と「存在者の存在」の理解とに、「等根源的gleichursprünglich」にかかわっている(119頁注解)

だから現存在の世界性や道具存在などの解明は、問われるものとしての「ばくぜんとした存在了解」を解明しているのであって、問いもとめられるものとしての「存在の意味」解明の前段階であることが分かる。このように『存在と時間』の探究は段階的になっており、その段階構造を予示しているのが、「存在への問いの形式的な構造」ということになる。このようにみてくると「形式的な構造」がいかに重要であるかがよく分かる。

私はあらゆる種類の書物の中で最も読者に親切な書物は、法律の逐条解説ではないかと思うのだが、熊野訳の厖大な注解と訳注はまさに『存在と時間』の逐条解説となっている。本文も読みやすく明快であり難解なハイデッガーを読解するうえでここまで親切な本はない。これは疑いようもなく知的財産である。