『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その2)

存在と時間』を読んでいると、一体、存在についてどこまでが解明され、何が解明されずに終わったのかという疑問が叢雲のように湧きあがるのである。
それにしては「問いもとめられるもの」としての「存在の意味」が時間性であると、初めからあっさり示されている。これは答ではないのか、答でないとすると一体何なのか?

現存在を時間性として「解釈」することによって「存在一般の意味へ向けられた」問いに対する答えが与えられるわけではない。それは、しかし「答えを獲得するための地盤Boden」を準備するものだ。(135頁注解)

なんとも準備作業が長い書物なのだが、この準備はどこまで続くのか、そしてそれは準備のままで終わってしまうのか?
ここでも前回述べたように「存在への問いの形式的な構造」が導きとなる。
形式的構造「問いかけられているもの-問われているもの-問いもとめられているもの」つまり「存在者-存在-存在の意味」であるが、現存在を時間性として解釈することは、問いかけられているものである存在者(現存在)-問われているものである存在(時間性)の解明に対応していることが分かる。それは形式的構造の第一項と第二項の解明であり、第三項の問いもとめられている「存在の意味」には到達していないのである。現存在は存在者一般ではない。だから現存在を時間性として解釈しても、存在一般の意味には到達しないのである。したがって地盤の準備とは、この形式的構造を完成させるということであることが分かる。
しかしこの「地盤」について訳者はBodenと原語を付しているが、Bodenというのはナチスのスローガンである「血と大地」Blut und Bodenを連想させる。それがレーム粛正後の著作『芸術作品の根源』では、「大地」Erdeに変るのだから、このBodenからErdeへの用語の変遷については何か深い意味があるように思われる。

現存在に固有な過ぎ去ったありかた-これはつねに現存在の「世代」のそれを意味する-は、現存在の後につづくのではない。現存在にそのつどすでに先だっているのである。(145頁熊野訳)
現存在に固有の過去は(ということは彼の「世代」の過去ということだが)、現存在の後からついてくるのではなく、そのつどつねに現存在に先立っているのである。(中山元訳)

この部分は一読すると過去が未来のように先立つものとして時間が逆に流れているように読める。どうも意味不明なので二種の訳を参照したが、それでもよく分からない。前の方にこれと関連する部分が次のようにある。
現存在は、じぶんがそのときどきに存在する様式にあって、したがってまた現存在にぞくする存在了解についても、或る伝承された現存在解釈のうちで生まれ、そのなかで育てあげられる。(144頁熊野訳)
現存在はそのつどの存在のありかたにおいても、それにそなわる存在了解においても、それまでうけ継がれてきた何らかの現存在の解釈のうちへ、そしてその解釈のうちで、生まれ育ってきたのである。(中山元訳)

これは現存在の「生起」について、ハイデッガー自身がパラフレーズした部分であるが、これを読むと、過去の伝承された現存在解釈から現存在が生起すると言っていることが分かる。ズバリ言えば、過去を受け継ぐことが未来を切り開くと言っているのだ。それだけでなく、それ以外には現存在は生起しないとまで言っているのである。ここら辺に伝統や民族を自ら引き受けることを重視する親ナチス的な考えが生まれてくるように思われる。
先走って言えば先駆的覚悟とは、ハイデッガーにとっては何もない未来への先駆ではなく、伝統と民族共同体への先駆なのである。それが現存在が「伝承された現存在解釈のうちで生まれ」るということの意味である。
もっともハイデッガーによると、通俗的な歴史好きはかえって真正な伝承を隠蔽することになると警告してもいるので、本人の意図としてはナチスの民族観とは一線を画していたのかもしれないが、ファリアスによるとむしろナチスの精神的指導者になろうとしていたということである。政治大学でゲッベルスやローゼンベルクらと共に講義していたらしい。(ファリアス著『ハイデッガーとナチズム』244頁)

本書では「有時性」の問題は展開されるにいたらなかった。ここで予示されている方向で、カント『純粋理性批判』を解釈しようとした著作が『カントと形而上学の問題』(1929年)である。(159頁訳注)

そうなのだ、やはり、『存在と時間』では「有時性」は展開されていないということである。
このようにハッキリと指摘されると最初の問い、本書が何を解明し、何が解明されずに終わったのかがハッキリする。
ハイデッガーは「存在の意味」とは時間性であるとし、さらに「第二篇 現存在と時間性」において「時間性」についてかなり詳細に解明しているので、私はあたかもそれで「存在の意味」が解明されたかのように誤解していたが、そうではないということである。
ハイデッガーは、「時間性」と「有時性」を区別しており、「時間性」は特に現存在とのみ関わる概念である。これに対し存在一般にかかわるのが「有時性」(存在時性)であり、この訳注により、それは本書では展開されていないのである。
そして「現存在と時間性」の解明は、形式的構造の第二項までの解明であり、第三項に至っていない。ということは本書が解明したのは、存在への問いの形式的な構造の第二項まであり、時間性もその範囲の解明である。解明されずに終わったのは存在一般の有時性、つまり形式的構造の第三項である「存在の意味」である。となると単なる訳注の一言によって『カントと形而上学の問題』の読書欲が大層刺激されるのである。