『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その3)

人によってはこの熊野訳の注解は本文の要約であり新味はないと思うかもしれない。しかしそれは受身の読書であって、訳者があちらで指摘し、こちらで指摘していることを繋いでみると独自の主張が浮かび上がってくることがある。
それに(私はそうは思わないが)仮に注解が単なるくり返しであるとしても、本文と注解を通読すれば『存在と時間』を二回読んだことになる。嬉しい。
この種の本は小説のように急いで読むものではない。しかし、本文で読んだことを注解で再確認するというリズムに慣れてくると心地よく読み進めることができる。多少分からない箇所があっても、注解で再確認しながら進むことができるので、これまで曖昧に理解していたところがかなり明瞭になってくる。ハイデッガーの論理のマッピングが可能になるのだ。

ことばをかえれば、破壊が見てとるのは、古代の存在論の地盤を有時性の問題系に照らして解釈する課題に、自分が直面しているということなのだ。(164頁本文)

例えばこういう一文を見ても、既に訳注において「有時性の問題系」とは、現存在の時間性ではなく、存在一般の意味に関わることが指摘されているので、ここで素描されているのは未完の第三篇以降の課題なのだと理解できる。
過去の読書では、私はこの「有時性の問題系」と「現存在の時間性」との区別すら明確にしていなかったので、要するに五里霧中、何も理解していなかったということである。

存在者の存在をめぐる古代の解釈は、「世界」ないしはもっとも広い意味での「自然」へと方向づけられており、その解釈はじっさい、存在の了解を「時間」から獲得していることである。このことをあかす外的な証拠は-しかしもちろん、たんに外的なものだが-存在の意味が(中略)一定の時間様態、つまり「現在」とのかかわりで理解されているのである。(164頁本文)

すると古代存在論ハイデッガーと同じく、存在の意味を時間として正しく捉えていたことになるのではないか? どうしてそれが破壊すべき桎梏になるのか分からない。そこで本文をよく見ると、ハイデッガーはあくまで「外的な証拠」と言っており、4頁あとで「ギリシャ的な存在解釈は(中略)時間が有する基礎的な存在論的機能を識ることも、了解することすらもなく」(168頁)遂行されていたと述べている。
つまりギリシャ的存在解釈において、存在の意味が「現在」との関わりで理解されていたというのはあくまでハイデッガーの洞察であって、古代存在論それ自体においてはそのことは隠蔽されていたということである。なんとも息の長い、もって回った説明なのだが、そう整理するとハイデッガーの言うことに矛盾はない。
この部分にこだわるのは、やはりハイデッガーの古代存在論に対する評価の二面性を明確にしておくことが重要だからである。つまり古代存在論の根底には真正な(ということはハイデッガー流の有時性による)存在理解があることが外的証拠により窺われるが、それは覆われているので、存在論史の破壊によって覆いをとる必要があるということであろう。
つまりハイデッガーが言いたいのは自分は勝手な独断でものを言っているのではなく、自分こそが覆われてしまったギリシャの真正な伝統を発掘したのだということであろう。
ここに前回指摘した、過去の伝承された現存在解釈から現存在が生起するという主張の反映が見られると思う。
しかしこういう箇所を読むと、ナチスベルリンオリンピックで初めて聖火リレーが考案されたことを連想してしまう。確かウォーラーステインが言っていたと思うが、ヨーロッパ人のギリシャ的伝統というのは、イスラムからギリシャ文化を導入した過去の歴史を抑圧隠蔽するための幻想に過ぎないという説もあるから、ハイデッガーのいう「覆いをとる」ことが別種の隠蔽になるかもしれないことにも留意する必要がある。

とはいえ、イスラムからギリシャ哲学を輸入するよりも前にボエティウスアリストテレス研究という細い流れによって普遍論争が生じ、それがイスラムからの輸入と合流したことも確かである。

「第七節 探究の現象学的方法」においてハイデッガーギリシャ語に遡って「現象学的方法」に関する語源的解明を行うのだが、分かり難い。
ハイデッガーがここで何を主張しているのかは分かる。それは、「現象」を「存在」に置き換えているのだ。だからギリシャ語に遡るのである。
つまりフッサールを含めて、他の現象学者は、「現象」を「存在者」としているが、それは間違いだと暗に批判しているのである。
したがってここで重要なのはギリシャ語の語源ではなく、ハイデッガーが「通俗的あるいは形式的現象概念」という言葉で一体何を言おうとしているかである。ここが曖昧だから分かり難いのである。

さらに、じぶんを示すもののもとに、たとえばカント的な意味で経験的直観をつうじて接近可能な存在者が理解されるなら、そのさい形式的な現象概念は正当なしかたで適用されることになるのである。そのように使用された現象は、通俗的な現象概念の意義を充たしている。(187頁本文)

”一体、何が言いたいの?”といいたくなるような文章だが、私なりに整理すると、要するに「形式的な現象概念」とは存在それ自体ではなく「経験的直観をつうじて接近可能な存在者である」ということだ。つまりハイデッガーが言おうとしているのは、通俗的かつ形式的現象概念は現象を「存在者」としているが、真正の本来的な意味での「現象」は存在者ではなく「存在」だということである。そしてそのことはフッサールを含めて他の連中は気がついていないが、ハイデッガーだけが気づいているということである。
なぜそうはっきりと言わないのだろう。フッサールへの遠慮だろうか。
おそらく私は議論を単純化している。それは認める。だが、以上の視点でこの箇所を読むと何もかも明瞭となるだろう。ハイデッガーの胡乱な論述は感心しない。何重にも保留しながら、おそるおそる自己の主張を呈示しているようだ。
ギリシャ語に遡って「あらわれ」と「現象」を区別する必要があったのは、それが「存在者」と「存在」の区別に対応しているからだと思う。
だから存在論現象学としてのみ可能と言っているが、本心では真正の現象学存在論以外のなにものでもないと断言していたと思う。