『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その4)

現存在の存在の実存論的な意味は、気づかいなのである。(222頁本文)

ハイデッガーは現存在の分析を始めるにあたり、現存在が「問いかけられているもの-存在者」であることを念押ししている。(221頁冒頭)そこで存在への問いの形式的構造を参照してみると「問いかけられているもの-問われているもの-問いもとめられているもの」つまり「存在者-存在-存在の意味」であるから、現存在の分析は準備作業に過ぎないことが分かる。
しかし同時に早々と、最終的に「問いもとめられているもの」である「存在の意味」が「気づかい」であると予告されてもいる。「存在の意味」である時間性の正体が「気づかい」であると言われると、なんだかガッカリしてくる。人によっては<そうだったのか!>と感嘆する方もおられるかもしれないが、私はガッカリする。もしそれが存在の問いの最終的な答なら、これほど大仰な始め方をする必要があるのだろうか。その時間概念は<あまりにも人間的ではありませんか>と言いたくなる。
そこで本文をよく見ると、「存在の意味」ではなく、「存在の実存論的な意味」とある。
実存というのは現存在にかかわる概念であるから、つまり存在一般ではなく、あくまで現存在に限定した存在の意味ということである。だからそれは最終的な答ではないのだ。だから第二部以降が予定されているのである。
サルトルとの決定的な違いがそこにある。『存在と無』における時間論はほとんどハイデッガーのパクリであるが、サルトルはもうそれで存在の意味に決着をつけたような気になっている。ハイデッガーの時間概念は現存在に限定したものであり、それとは別に存在一般の有時性が考えられていた。そこがサルトルとの大きな違いだ。
そうした視点でみると、後半から出てくる「死へとかかわる存在」「良心」「呼びかけ」などという、あまりにも人間的な臭みのある諸概念も、実存論的意味として現存在を対象とするものだから当然であり、ハイデッガーは存在一般の有時性の概念でさらにその先を見ていたことが分かる。

今回、この「第一章第九節 現存在の分析論の主題」を読むと、ハイデッガーの沈黙が感じられた。図式的にみるとハイデッガーは「存在者」を「現存在」と「現存在以外の存在者(目の前にある存在)」の二つに区分し、現存在の存在性格を実存カテゴリーと名付け、現存在以外の存在者の存在性格をカテゴリーと名付けている。
そして、「世界の内部で出会われる存在者を、存在解釈の範例となる地盤としていた」古代存在論において、ロゴスのうちでそうした存在者と出会うとしている。そのようにして見ることが可能となったものが、諸カテゴリーである。
こうしてみると、ハイデッガーは古代存在論のカテゴリーを「現存在以外の存在者」にあてはめていると思われる。すると、実存カテゴリーはどうなるのか。ロゴスのうちで出会うのでないとしたら、いったい何が実存カテゴリーを見させることになるのか。
ここでハイデッガーが沈黙しているのは現象学に対する謀反である。
あれだけ語源的探索をして、現象学のロゴスが「見えるようにさせる」ことであると解明しながら、ここではそれを「カテゴリー」として現存在の実存カテゴリーからロゴスを排除しているようである。
言い換えれば、「人間」はカテゴリーとして、目の前にある存在であり、ロゴスのうちで出会う存在であるが、「現存在」は実存カテゴリーとして(己れ自身だから)目の前にある存在でもなく、ロゴスのうちで出会うこともないということである。
その後の展開をみれば、言わんでも分かるじゃろ、ということであろう。
こうしてみると、ハイデッガーが現存在の分析にあたり、ロゴス以前のモノとの交渉として道具存在から始めている理由が分かる。今ではもう当たり前のような道具存在であるが、よく考えてみるとこのような分析はまったく反理性的である。
人によっては道具存在の分析こそ現象学的探究の模範例と言うかもしれないが、事実、そういう解説をする連中が後を絶たないが、私はそれは違うと言いたい。
なぜなら、ハイデッガーは道具存在を「目の前にある存在」ではないとしているのだから、それはロゴスの対象ではないのだ。それどころか、その後の展開をみると、道具存在の指示連関から有意義性を経由してレゲイン(語り)としてロゴスが生じるのであるから、道具存在の分析を行っているのが現象学的ロゴスではないことは自明である。
するといったい何が(誰が)道具存在を分析しているのか? より正確にはレゲイン(語り)として道具存在の指示連関を「見えるようにさせ」ている者は誰なのか?
ハイデッガーの沈黙とはこのことである。