『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その5)

すでに論じておいた現存在の「存在性格」が、以下の探究において「構造的に具体化strukturale Konkretion」される。(265頁注解)

ここで「構造的に具体化される」のは「世界内存在」のことであるが、これは現存在の存在ではなく、現存在そのものの別の表現である。
「現存在」という名称は「存在」ではなく「存在者」の名称なのだが、現に存在していると了解しており、そうした存在了解を本質とする存在者なので「現存在」とされている。
だが、その存在了解は漠然としている。だから現存在が何であるかも漠然としているのだ。
ハイデッガーの凄い点は、では漠然としている存在了解を明晰にしましょうとは言わないところである。存在を直接問うことはできない。問いかけられるものは「存在者」である。だから漠然とした現存在に問いかけるしかない。したがって現存在の漠然としたあり方とは一体どういうことか解明しましょうというのである。それが「世界内存在」だ。
ここで何故ハイデッガーが「存在への問いの形式的な構造」を問題にしたのか、その理由が分かってくる。それは第三項の「問いもとめられているもの-存在の意味」は第一項の「問いかけられているもの-存在者」を経由して獲得する以外にないということである。

実存する現存在には(そのつど私のものであること)がぞくしており、このことが本来性と非本来性を可能とする条件にほかならない。(265頁本文)

この文が何を言っているのかよく分からない。なぜ「私のものであること」が本来性と非本来性を可能とするのか。ハイデッガーの論述には飛躍がある。ここで補足挿入するべきは、現存在の存在了解が漠然としていることではないか。「私のものであること」が漠然とした存在了解だからこそ、現存在が誰であるかということが漠然となるのだ。
そうだ私の存在了解は漠然としている。それは決して明晰になることはない。『存在と時間』を読んでもなお。だが少なくとも私はそれが漠然としていることを自覚できる。だから本来性と非本来性が可能となるのだ。本来性は最終回答ではない。非本来性に気づくことが本来性なのだ。ハイデッガーによる日常性の「ひと」das Manの描写が活き活きしているのはそのためだと思う。

内存在は、したがって、存在的な特徴づけによっても存在論的にあきらかとはなりえない。(279頁本文)

前回読んだときは、この文を読み過ごしてしまったが、この文にはハイデッガーがなぜ「世界内存在」という概念を創造したのか、その動機が示されているように思われる。
この「世界内存在」については、それが何であるかという説明はあるが、なぜそれが必要なのかという背景理由の説明はない。ただ、前の第11節において「自然的世界概念」の理念を仕上げる課題が指摘されているが、それがなぜ課題であるのかという説明もない。(ただ「欠落」しているからと一方的に主張するだけである)そこで、訳注にもあるようにフッサールの人間的世界概念の問題との関連が想定される。また、ハイデッガーが故意に触れないユクスキュルの環境世界の影響を云々する論者もいる。
そうした影響は確かにあっただろう。しかし、ハイデッガー存在論的差異の視点からするとフッサールもユクスキュルも問題外である。
現存在の存在了解は確かに漠然としているが、ハイデッガーが依拠する唯一の着手点は、現存在のあり方は、目のまえにある存在とは異なるということである。ただこれだけを根拠として、世界内存在を展開しているのだから驚くべきである。
では、それがどう異なるのかということは分からない。ただ違うというだけである。世界のなかで机とコップは、ともに「目のまえにある存在」同士として接するが、世界と現存在はそのようなあり方ではないと言っているだけだ。それを「内存在」とか「事実性」と名付けているが、名付けるとなんか分かったような気になるが、それは誤解である。「事実性」とはよう分からんということを婉曲に表現しているに過ぎない。
この文でいう「存在的な特徴づけ」とは「目のまえにある存在」としての特徴づけである。現存在も人間として世界の中にある。そういう点では「目のまえにある存在」のように特徴づけることもできるが、それでは「内存在」を存在論的にあきらかにすることはできない。言い換えれば、現存在を世界と切り離して特徴付けることはできない、だから現存在を「世界内存在」として捉える必要があるということだ。
「世界内存在」とは世界は私の主観であるという意味ではない。現存在は「目のまえにある存在」として捉えれば一箇の対象(存在者)だが、「目のまえにある存在ではないあり方」(内存在)として捉えると「世界内存在」というあり方とならざるを得ないということである。ハイデッガーはそれが現存在の運命であり、「事実性」であると言っている。もし世界が私の主観であるなら、運命などあるはずがない。