『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その15)

はっきり言ってハイデッガーのいう「有意義的に指示する作用」は分かりにくい。
昔読んだときもそうだったが、このあたりが第一の難関である。
もともと「指示」概念自体が明確でないうえに、さらに「有意義」が加わるのだから、曖昧模糊としてくる。一度きちんと整理して理解する必要を感じていた。
そこでこの「理解」だが、熊野純彦訳で頻繁にでてくる「理解」verstehenは「了解」とどう違うのか。私は熊野純彦訳の最大の特徴は、この「理解」という訳語の使用であると薄々感じていたが、この段階にきてそのことがあらためて実感できる。
ちなみにドイツ語では理解・了解ともに動詞verstehenであり、原佑・渡辺二郎訳ではともに「了解」と訳して区別していないのである。
この理解と了解の使い分けが、熊野純彦訳では『存在と時間』の最初から出てくる。

それでは私たちは今日せめて、「存在」という表現を理解できないことに困惑しているのだろうか。まったく困惑もしていないのだ。だからこそとりわけまず、この問いの意味への了解を、なによりもふたたび目ざめさせることが必要である。(67頁本文・熊野純彦訳)

それではわれわれは、今日、「存在」という言葉を了解できない困惑にだけでもおちいっているのであろうか。断じて否。だからこそ、あらかじめ必要なのは、この問いの意味を明かにするなんらかの了解内容を、まずもってふたたびめざめさせることである。(原佑・渡辺二郎訳65頁)

Sind wir denn heute auch nur in der Verlegenheit, den Ausdruck »Sein« nicht zuverstehen ?  Keineswegs. Und so gilt es denn vordem, allererst wieder ein Verständnis für den Sinn dieser Frage zu wecken.

なぜ熊野純彦訳で、理解と了解が使い分けられるのか、その理由はよく分からない。
ただ原佑・渡辺二郎訳では、Verständnis とverstehenを「了解内容」「了解」と訳し分けているので、そうした解釈から大きくはずれることなく、熊野純彦訳では、了解の内容面を「了解」とし、作用面を「理解」としたのかもしれないと一応仮説を立てておく。最初から使い分けに注目しておけば良かったのだが。また読み返す必要があるかもしれない。直近で探してみるとこんな注解があった。

「現存在の存在には存在了解がぞくし」、たほう「了解が存在するのは、或る理解作用(Verstehen)においてである」。現存在は「世界内存在」だから、その存在了解の「本質にそくしたなりたちder wesenhafte Bestand」には、世界内存在の「理解」がぞくしている。(411頁注解)

「了解が存在するのは、或る理解作用においてである」これは面白い。原佑・渡辺二郎訳では「了解内容はおのれの存在をなんらかの了解作用のうちにもっている」である。
こんな箇所があるのかと原文を調べてみると次のとおりである。
Verständnis hat sein Sein in einen Verstehen.
こうしてみると原佑・渡部二郎訳が原文に忠実であるようにみえるが、ただVerständnis を単なる名詞形の「了解」ではなく「了解内容」としてしまうのは訳しすぎかもしれない。かといって「了解が存在するのは了解作用においてである」とすると意味不明となる。すると熊野純彦訳のように、了解と理解を使い分けるのが多義的な含みを残して自然かもしれない。
このようになぜ「理解」にこだわるのかといえば、まさに「有意義的に指示する作用」が熊野純彦訳では「理解」を主語として解明されているからだ。

理解はさきに暗示されたさまざまな関連を、或る先だった開示性のうちで保持している。そうした関連に親しみながら、じぶんをそのうちで保持することで、理解はその関連を、じぶんの指示作用がそのうちで動いているものとしてじぶんのまえに保持しているのである。理解はこの関連そのもののうちで、またその関連自身にもとづいて、じぶんを指示することができる。指示作用のこうした関連にぞくする関連させる性格を、私たちは有意義的に指示する作用ととらえる。そうした関連との親しみにおいて現存在は、じぶん自身を「有意義的に指示する」。(415頁本文)

この「理解」が原文ではVerständnis ではなく、das Verstehenである。(また中性名詞化である。動詞の中性名詞化が実存カテゴリーであるという私の仮説は的中しているかもしれない)
「さきに暗示されたさまざまな関連」とは、「手もとにあることは、したがって世界と世界性に対して、なんらかの存在論的関連のうちにある」(393頁)というその関連である。
「さまざま」であるのは、最終的にその関連は道具存在だけでなく「暗示された連関は、適所性の構造から、本来的で唯一の<なにのゆえに>である現存在自身の存在へといたる」(402頁)からである。
「先だった開示性」とは世界内存在としての「世界」である。
つまり理解は、道具存在から現存在の存在へといたるさまざまな関連を世界のうちで保持しているということである。
そして引用文の終わりの「有意義的に指示する作用」とは、原文ではbe-deutenである。辞書でしらべると「意味する」である。分析哲学フレーゲの訳語ではbeduetenが「意味」でsinnが「意義」となっており、ややこしいのだが、ここで熊野純彦訳があえてbe-deutenを「有意義」としたのは意味があると思う。
元々、このbe-deutenのdeutenに「指示する」という意味があり、それに接頭辞beが付加したものであるから、それを「有意義的に指示する作用」と分解したのであろう。
さらにbedeutenとsinnの違いについてはフレーゲの説明が分かり易い。
フレーゲは「明けの明星」と「宵の明星」についてbedeutenは同じだが、Sinnは異なると言う。つまり「明けの明星」も「宵の明星」もsinnは異なっているが、それぞれの関連をたどると、同じ金星を指し示しているのである。だからbedeutenは同じだというのである。
こうしてみると引用文の言っていることが概ね分かってくる。「有意義的に指示する作用」とは、単なるXがYを指示するという関係ではなく、すでにある関連のうちでその関連に基づいて指示する作用である。だから指示作用deutenにbeが付加したのである。
しかもその関連は、道具存在だけでなく「現存在自身の存在へいたる」関連でもある。
ここまでは分かった。
分からないのは、この引用文の主語が「現存在」ではなく「理解」であるという点である。
そして最後が、「現存在は、じぶん自身を「有意義的に指示する」。」である。この「理解」と「現存在」との関係をどう捉えればよいのか。
本文では「理解」については第31節参照とあるので参照してみると次のような文がある。

理解の開示性は、<なにのゆえに>と有意義性とが開示されたありかたとして、完全な世界内存在に等根源的にかかわっている。(『存在と時間(二)』188頁)

私の理解は不充分であるが、ざっくりとしたイメージではこうなる。
主語が「現存在」ではなく「理解」であるのは、現存在自身がさまざまな関連のなかの一項だからではないか。もちろん最終項ではあるが。それに対し、「理解」は現存在の<なにのゆえに>とそうした関連全体の有意義性を両方開示する。「有意義的に指示する作用」は現存在をふくむ関連全体に基づくのであるから、主語を現存在としなかったのではないかと思われる。