『存在と時間(一)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その16)

この第一分冊のデカルト批判から現存在の空間性にかけての論述は分かり易く、特に問題を感じない部分である。ハイデッガーデカルト批判は実体概念まで遡った徹底したものであり、現代においても未だに精神や心理の正体が曖昧としており、それが何であるかが明確でないのは、 ”もしかしてデカルトのせい?” と思わせるほどである。脳波とか電位などは、位置関係の関数的表現であり、これすべてデカルトの<延長>概念の延長に過ぎず、それが意味ありげに見えるのは精神がそれらを解釈した結果に過ぎないことがよく分かる。
ということで第一分冊の読解を終えるにあたり留意点を備忘録としてまとめておくことにしよう。

道具存在(手もと存在)の発見が偉大であるにも関わらず、その後のハイデッガーはそれがまるで悪い冗談であったかのように、捨てて顧みない。それはなぜなのか。
思うにハイデッガーは存在領域を現存在の実存カテゴリー的存在(世界内存在)とカテゴリー的存在(事物存在・道具存在)の二つに区分したのだが、カテゴリー的存在を一度も存在として正面きって考察していないのである。
まず事物存在についてはまったく存在論的に考察されていない。道具存在のみが現存在との関係としてその存在が適所性として考察されているのだが、実存カテゴリーである<適所をえさせること>によってはじめて成り立つような存在である。
してみると終始一貫して現存在の存在(世界内存在)のみが考察されていたということになる。それは本書のねらいとするところでもあるのだが、それなら、なぜ事物存在や道具存在を存在として取りあげるのか?
後期ハイデッガーの思想と照らし合わせてみると、どうもカテゴリー的存在などは、存在とは名ばかりで、存在者に過ぎないとしか思えない。それどころか、世界内存在もまた現存在の「存在体制」であって、存在そのものではない。事物存在、道具存在、世界内存在の三者は「存在」ではなく「存在者」に過ぎないのである。それらをあたかも「存在」であるかのように考察しているのは、存在者を存在と取り違える存在忘却からハイデッガー自身がまだ完全に脱却しきれていなかったからではないか。
すると、存在そのものは姿を現さず秘匿されたまま、これら三者の存在者に姿を変えて顕現しているとみることもできる。世界内存在が道具存在に<適所をえさせる>ように見えるのは、三者のなかで現存在がもっとも存在に親密だからではないか。
これは私の直感にすぎないが、「適所をえさせること」こそが「存在」の別名ではないかと思う。なぜなら「適所をえさせること」によって適所全体性の成立により世界そのものが成り立つからだ。『存在と時間』の説明はそうなっている。世界内存在を成立させているという点で、「適所をえさせること」が世界内存在に先行しているのである。
こうしてみると、「適所をえさせること」の妖しげな性格が理解できる。それが「存在」であるなら、現存在にとっては「存在」の退いていく後ろ姿しか見えないからだ。一応、実存カテゴリーと推察されるだけで、ハイデッガーは、この「適所をえさせること」が何であるかということを一度も正面切って明らかにしない。
ただ、現存在の配慮的な気づかいが道具の「適所性」と出会う場を成立させるものとして説明されているだけである。しかし、存在者が出会う場とは存在そのものではないだろうか。(その14)で引用した部分を再掲しよう。

適所をえさせるとは、(略)存在させることにほかならない。(略)「存在」させるとは(略)存在者の存在を出会わせることである。(404頁本文)

「出会わせる」とはまさに現存在の配慮的気遣いと道具存在の適所性を出会わせるのである。
それにしても、「「存在」させるとは(略)存在者の存在を出会わせることである。」とは意味不明である。後年、ハイデッガーはEs gibtを「存在を与える」として、Esが存在であるとしている。
ということは、「存在させる」の主語である「適所をえさせること」こそが「存在」であり、それが出会わせる「気遣い」や「適所性」は存在ではなく、存在者ではないだろうか。そう考えると筋が通る。
存在者を出会わせるというのであれば理解できるが、存在を出会わせるというのはどう贔屓目にみても理解不能である。これはハイデッガーが「気遣い」や「適所性」を「存在」と思い定めていたための筆の勢いとしか思えない。
ハイデッガー自身の説明によっても「適所をえさせること」Das Bewendenlassenは「気遣い」や「適所性」に先行しているように思われるからである。
こうしてみると、賭けてもいいが「気遣い」は未だ存在者であって、存在ではない。存在はおそらく、それとして名指すことが出来ないものであり、何かに仮装しているはずである。ハイデッガー自身の理屈からみてもそうなるはずである。