『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その17)

存在と時間』には随所に後年の転回の萌芽のようなものがみられる。にも関わらず、後年その現象学的方法が完全に放棄されてしまったのは、この書において未だ「存在者」を「存在」と取り違えていたからではないか、そして現象学的方法を適用する限り、その取り違えが必然的に生じるのではないか、そのことにハイデッガー自身も薄々気がついたからではないかと推測される。というのが私の一応の仮説である。
こうしてみると「存在者」を「存在」のように語る「お伽噺」を拒否しながらも、いつのまにか「世界内存在」や「道具存在」「気づかい」などをあたかも「存在」のように語る「お伽噺」に陥っているのではないか。
ただ、存在論的差異について明瞭な把握をしていたのは確かであり、それが『存在と時間』を読むに値する書としている。そのことを見届けたうえで、もし理解不能なところがあれば、それが現象学的方法に起因する「存在者」と「存在」との取り違えによるものではないかと一度は疑ってみるのもよいかもしれない。

世界内存在を構成する契機のすべてが、世界という現象そのものとおなじくらい、現象的にあきらかなかたちできわだっていたわけではない。(中略)その現象を私たちは、日常性において現存在であるのはだれか、という問いを手にしながら追跡しよう。(62頁本文)

「現存在であるのはだれか」
昔これを読んだとき、不思議な問いだと思った。
脱線になるが、私の場合「誰か?」という問いは力の対立という連想を引き起こすのである。ニーチェの系譜学を連想させるような問いである。
あるいはもっと通常の例としてインフレ政策とは何か?という問いに代えて、インフレ政策を支持しているのは誰か?という問いに置き換えるならば、それは金利生活者・年金生活者を敵として彼らから資金を奪い、経営者に資金を回すことを目論む人、すなわち経済の担い手に味方するケインズその人ということになる。(この見解は長沼伸一郎の著書を参考としている)
このように「何か?」という問いは本質論になるが、「誰か?」という問いは力の対立状況を明かにする政治的な問いということになる。
ところがハイデッガーの「だれか」という問いには、そのような力の対立状況が見られない。見られないその理由は、その問いが明かにしているのが力と力との対立ではなく、力(存在)と仮象(現存在)の対立だからかもしれない。
だから現存在のだれかが、「ひと」世人das Manとして解明されても、答が得られたように思われないのは、世人としての現存在が存在ではなく非本来的な仮象でしかないからだろう。
すると現存在の存在はどうなっているのかということに留意しながら読み進める必要がある。それにしても現存在が私ではないとはどういうことか。

現存在はそのつど私のものであるという現存在の体制が、現存在はさしあたりたいていは現存在自身ではないことの根拠であったとすれば、どうか。(69頁本文)

この文は、ハイデッガー存在論的差異を現存在である<私>に適用しているものと思われる。つまり<私>を<存在者としての私>と<存在としての私>の二重性として捉えるならば、引用文の「現存在自身」とは<存在としての私>ということになる。
すると引用文は、”現存在が存在者としての私であるということは、現存在が存在としての私ではないことの根拠である” と読み換えることができる。現存在は存在者だから、存在としての私ではないという自明のことを述べているに過ぎない。
ハイデッガーは現存在は「私自身ではないということもありうるかもしれない」(67頁)と論述しているが、そんなことがありうるだろうかと疑問に思っていた。だが、この論述の「私自身」を<存在としての私>と読み替えれば納得できる。
そして存在論的差異とは、存在者と存在が異なるというような脳天気なことを言っているのではなく、「存在」が「存在者」の存在として顕現しつつ、同時に「存在者」の背後に隠れていて「存在者」以外のものすなわち「無」であるということである。だから<存在者としての私>は常に認識可能であるが、それを存在させている<存在としての私>は不可視なのだ。本来性というものは、そう簡単には認識できないのである。だからこそ非本来的な「ひと」世人das Manが世界を覆っているのである。本来的な私など予感はできてもその正体が分かる筈はないのだ。