『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その18)

前回触れたとおり<存在者としての私>こそが、現に今、ハイデッガーを読んで分かったようなつもりで書いているこの私に他ならない。これに対し<存在としての私>はまったくつかみどころがなく理解しがたいものである。否、そんなことはない、今ここに存在していることを私は知っているではないかと反論されるかもしれない。だがいったい何を知っているのか。知っているのは<存在者としての私>がそこにいるということだけではないか。
ハイデッガーが抗議しているのは、それで存在が何であるかを分かったつもりになるなということである。デカルトのように「我思う、ゆえに我あり」と言ってみても、我を存在者として把握しているだけで、「我あり」自体がいったい何を意味するのか誰も知らないということだ。それが存在者と存在との存在論的差異である。
ではハイデッガーは<存在としての私>を把握しているのかといえば、そうとも言えない。
ただ『存在と時間』は<存在者としての私>の側に滞留しつつ、それとは異なる<存在としての私>があるかもしれないと予感している書なのだ。
世界内存在は存在体制であって存在ではない。ハイデッガーは「気づかい」こそ現存在の存在というが、それはハイデッガーの勇み足であって、「気づかい」は現存在の「あり方」に過ぎない。
ならば<存在としての私>を予感しているとどうして言えるのか?
まず、ハイデッガーの論理をつきつめると存在は対象として名指すことが本来的に不可能なものである。だから存在が「気づかい」であるというのはハイデッガーにしては安直であり、お手軽なのだ。「気づかい」に先行し、それに存在を与えている「存在」がなお背後にあるはずだ。しかもそれは名詞ではなく動詞としてしか言い表すことができないものであろう。
それが「適所をえさせる」である。ハイデッガーは自ら気づいていないが、そのことを予感しこの書で暗示しているのである。
前回指摘したことなのでくり返さないが、「適所をえさせる」は実存カテゴリーであって、道具存在の「適所性」を先だって与えるものである。すると「適所をえさせる」は道具存在と「配慮的な気づかい」に先だって、それらに存在を与えるものとして<存在としての私>を指し示すものではないだろうか。あまりにも長くなるので引用しないが、関心のある方は前巻の『存在と時間(一)』404頁の「適所をえさせるとは・・・」以下を参照されたい。三つの文章で構成される、そのひねくれた論述をよく読むと、「適所をえさせる」という語感にも関わらず配慮的な気づかいに存在を与えていると読むことができる。つまり「気づかい」に先行している「存在」なのだ。
だが、「適所をえさせる」とはなんという術語だろう。同語反復のような説明にも何にもなっていない術語ではないか。そうだ、だから予感なのである。「存在」をそう簡単に説明できるものではない。だが、私はこの頃思うのだが、そこには何か手探りのようなもの、確かな鉱脈を掘り当てているという感じがするのである。
だが即断を避けて、『存在と時間(二)』本文にそくしてそのことを検証していくことにしよう。

現存在が「じぶん自身」をさしあたり見いだすのは、じぶんが従事し、使用し、期待し、身を避ける当のもの-さしあたり配慮的に気づかわれる周囲世界的に手もとにあるもの-においてなのである。(82頁本文)

ここで見出されている「じぶん自身」とはいったい何かということは問うに値することだと思う。これまでにも指摘してきたとおり、「配慮的に気づかう」ことは対象的認識ではなく、手もとにあるものを明確に意識せずに手にしているような世界だ。デカルト的な三次元空間ではなく、適所全体性という世界で見出される「じぶん自身」である。
この後で、ハイデッガーフンボルトを引用して、私Ichが「ここhier」で、きみDuが「そこにda」で表現されるような言語の存在を指摘し、現存在が空間座標として占めている位置ではなく、世界内存在として「じぶん自身」を見出していることを説明していることからもそのことが窺われる。
するとその「じぶん自身」とは少なくとも対象としての「目のまえ存在」ではない。それでは「存在としての私」か言えばそうでもない。次のように「配慮的に気づかわれた世界」のもとで存在することも非本来的自己として頽落しているからだ。

頽落という標題は、まったく否定的な評価を表現してはいない。それが意味すべきは、現存在がさしあたりたいていは配慮的に気づかわれた「世界」のもとで存在していることである。(321頁本文)

この引用文は82頁引用文と同様に、「配慮的に気づかわれ」ている「世界」のもとで見出されている現存在だが、それが「頽落」つまり本来的な自己ではないというのである。
するとやはり82頁引用文の「じぶん自身」もまた<存在としての私>(=本来性)ではないということになる。
するとこの「じぶん自身」とはいったい何か?(これは内省ではなく引用文への問いである)
忘れてはならないのは『存在と時間』は存在の意味に到達していないということだ。それは失敗した企てなのである。だからハイデッガーがあたかも「存在」について論述しているようにみえるところはすべて「あり方」の違いによる「存在者」の区別を論述しているに過ぎないことに留意する必要がある。ハイデッガーが現存在と現存在でないものとを区別したのは、あり方によって存在者の領域を二つ(「事物・道具」と「現存在」)に区別したのであって、存在そのものを区別したわけではない。まだ存在は解明されていないのだから。
何が言いたいのかと言えば、カテゴリー的存在者が「目のまえにあるあり方」と「手もとにあるあり方」によって事物的存在者と道具的存在者に区別されたように、実存カテゴリー的存在者である現存在もまた「あり方」によって「デカルト的対象としての私」と「世界に頽落している私」の二つの存在者に区別されるのではないかということである。そしてこの二つはどちらも<存在者としての私>であって、<存在としての私>ではないのである。以上をふまえると、82頁引用文の「じぶん自身」とは「世界に頽落している私」ということになる。