『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その19)

「共同現存在」あるいは「共同存在」が出てくるあたりから、だんだん、『存在と時間』の斬新で大胆な印象が薄れてくる。なんかイケてない感じがしてくるのである。
論述がもっさりしていて説明にも何にもなっていない。あるいはそれが説明であるとして、さて、どこにハイデッガーらしさがあるだろう。共同現存在なんて誰でも言えそうではないか。
それに「世界内存在」でさえ理解するのに苦労しているのに、なんで脇から共同現存在が追加されるのだ。それもいかにもお手軽そうな存在である。
思えばハイデッガーは人間を「現存在」と命名してから、「存在」を濫発しているような気がしてならない。だが、この「現存在」という名称は特別なのであって、「存在者」でありながら存在了解を本質としているが故に、あえて「現存在」というあたかも「存在」であるかのような名称になっているのである。
だからハイデッガーのいうナントカ存在、世界内存在とか道具存在とか、それらはすべて「存在者」のあり方である。そうそう「存在」が何種類も転がっているわけではない。ハイデッガーは一度も明言しないが、その論理からするとスコトゥスの「存在の一義性」を肯定しているに違いないからだ。
そう解すると、ナントカ存在がどんどん増えてもいっこうに気にならなくなる。「存在者」のあり方が多様であるのは当然だからだ。一人の人間が「勉強している」「スポーツしている」・・・と様々なあり方をすることと同じことである。
私が関心があるのは、ハイデッガーが「共同現存在」という「存在者」の陰に何を見ていたかである。「共同現存在」のガッカリ感の由来は、存在の神秘のように感じられた「世界内存在」が「存在」自体ではなく、ただの「あり方」に過ぎないことがハッキリしてくるからである。ガッカリしないためには、さらにその奥を見届けなければならない。

日常的な現存在の自己は<ひとである自己>であり、これを私たちは本来的な自己から、つまり固有につかみとられた自己から区別する。(129頁本文)

だが、どうやって区別するのか?
ただでさえ煩瑣なハイデッガーの文章を引用しつつ検証するのは、あまりにも煩瑣になるので、ここでは論述の流れを要約するにとどめる。関心のある方は直接本文を参照いただきたい。
ハイデッガーが共同現存在を持ち出してくる理由は、日常的な現存在が本来的自己ではなく、<ひと>(das Man 原佑・渡辺二郎訳では「世人」)であると言いたいためだ。世界内存在そのものに共同性があるのだから、その主体は<ひと>だというわけである。
我々が話したり他人の考えを理解できるのは、現存在そのものに共同性があり、我々自身が<ひと>だからという説明は分かり易い。
したがって、その否定的語感にも関わらず、<ひと>は「根源的な現象として現存在の積極的な体制にぞくしている」(128頁)のである。
そして前回引用したとおり、世界内存在そのもの、つまり「配慮的に気づかう」こともまた世界への頽落なのである。
すると<ひと>が自らを世界内存在として把握したとしても、そのこともまた頽落であり、本来的自己ではないということになる。
共同存在としての世界内存在の主体を<ひと>としている以上、世界内存在の把握は本来的な自己を見出すことにはならないのだ。
ハイデッガーはこのように自らを窮地に陥らせたうえで、次のように論述する。

日常的な共同相互存在の存在は、一見したところ、純然たる目のまえにあることに存在論的に近づいているかにみえる。その存在はすでに、だが、目のまえにあることとは原則的にことなっているのだから、本来的な自己の存在はなおさら、目のまえにあることとしては把握されることができないことになるだろう。(134頁本文)

この論述を私なりに解釈するとこうなる。<世界に頽落している私>は頽落していることに気がつかない限り、<デカルト的対象としての私>に近づいてゆく。しかし実際は頽落しているのだから、私をデカルト的対象として把握することはできない。
つまり精神とか心とかの正体がつかめないのは、世界に頽落しているのにそのことに気づいていないからである。気づかずに頽落していることと、頽落に気づいていることは異なるということである。我々が共同現存在である限り頽落からは逃れられない。

現存在が世界を固有なしかたで覆いをとって発見し、じぶんに近づけるとき、つまり現存在がじぶん自身にみずからの本来的な存在を開示する場合には、「世界」をそのように覆いをとって発見することと、現存在を開示することが遂行されるのは、つねに、覆いかくし、暗くするさまざまなものを取りさることとしてであり、さまざまな偽装するものを粉々に砕くこととしてである。(130頁本文)

この「偽装」とは道具存在が<デカルト的対象>となることだ。つまり、ハンマーを金属でできていて重さが何グラムの物体として把握することだ。それを「適所性」によって手もと存在として把握することが「覆いをとって発見し」ということであろう。だが、ハイデッガーのこれまでの論述では、そうやって道具存在を配慮的に気づかうこともまた、世界への頽落であり、非本来的な存在のはずである。この引用文で不明なのは「世界を固有なしかたで」という所である。これは配慮的な気づかいとは別のことなのだろうか。私は、じぶん自身を「世界に頽落している私」として見出すことが、「世界を固有なしかたで」暴露することだと思う。だから「じぶん自身にみずからの本来的存在を開示する」といっても、それは「存在としての私」(本来的な自己)が直接的に対象として把握されるということではない。そもそも「開示する」とは認識のことではないのだ。それは経験である。頽落していることに気づくことが、本来的な存在を経験することだと思う。