『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その20)

内存在という現象のより徹底した考察はたほうあらためてより確実に、世界内存在の構造全体性を現象学的な視界のまえへ引きよせるべきであるというにとどまらない。現存在そのものの根源的な存在を、つまりは気づかいを把捉するための途をも拓くべきなのである。(137頁本文)

哲学は何度も初源に立ち返えらねばならない。そもそもハイデッガー存在論、すなわち「存在の意味への問い」とはいったい何なのか?
ハイデッガーは問いの形式的構造などについて説明しているが、そもそも「存在の意味」という言葉で何をしようとしているのかよく分からないのである。
こういう疑問が生じるのは、『存在と時間』においては徹底的に「存在者」のあり方が現象学的に解明されているだけだからだ。だがそれはハイデッガーも強調するように準備作業であって「存在の意味」の解明ではないのである。
では「根源的な存在を、つまりは気づかいを把捉する」ことが「存在の意味」なのか?
問題はこの「把捉する」である。もし「把捉する」が「現象学的な視界のまえへ引きよせる」ことであるなら、それは「根源的な存在」ではないのである。引用文の論理はそうなっている。とするならば、「把捉する」とは認識することでもなく、「気づかい」のあり方を世界内存在のように現象学的に解明することでもないということになるはずである。
にも関わらず、ハイデッガーが『存在と時間』でやっていることは「気づかい」の現象学的解明に過ぎないのである。「把捉する」という用語を使用した以上、現象学的解明では不充分だと自覚していたはずだ。そういう意味で、この引用文はハイデッガー現象学からの離脱を予告するものである。存在論現象学としてのみ可能という冒頭の宣言はどうもマズイと感じていたに違いない。
これは私の推測だが、『存在と時間』の段階ではまだ「存在の意味」への問いを「存在者」のあり方の現象学的解明として捉えていた節があるが、それと同時に、そのような解明では問いの答にならないということも自覚されていたのではないかと思う。
「存在」は存在者のあり方ではないのである。なぜなら「存在の意味」を問うとは、「なぜ存在しているのか」「存在している理由は何か」と問うことであり、「存在者」の無を前提とした問いだからである。それが存在論的差異だ。この立場は後年の『形而上学入門』で明確になってゆくのだが、それとともに現象学的方法は捨てられることになる。
つまり隠れている「存在」を暴く現象学的方法から、「存在」が隠れていること自体を顕わにする黙示的方法へ転回したことになるのだが、その転回への萌芽はすでに『存在と時間』においてもみられる。
例えば「気づかい」こそが現存在の存在だとするハイデッガーの強弁にもかかわらず、言外の言というか、「存在」を「存在者」であらぬものとして、背後から無が立ち上るような気配が感じられるのは確かである。どの部分でそう感じるのかこれから検証していきたい。

現存在はこのように、その<どこからどこへ>において蔽われているのに応じて、現存在自身にそくしては、蔽われることなく開示された存在性格を有している。この存在性格、つまり「現存在が在ること」を、じぶんの<現>のうちへと現存在という存在者が投げだされていることと名づけよう。(154頁本文)

この引用文はよく知られた「被投性」の定義である。
一見、「被投性」は、現存在が気分とともに存在が開示されるものとしてその語感と合致しているようにみえるのだが、決定的に重要な定義は、<どこからどこへ>が蔽われているということである。蔽われているがゆえに、投げ出されているという事実性が明確になるのである。蔽われているがゆえに被投性が顕わになるということは、言い換えれば「無」である「存在」が「存在者」を顕わにしているということではないか。
よく読むとハイデッガーは「被投性」においては現存在という「存在者」の「開示された存在性格」が顕わになると言っているだけであって、決して「存在」が顕わになるとは言っていない。
ハイデッガーが「蔽われている」という場合、通常、そこには「存在」が隠れているのである。すると「被投性」は「存在」ではなく「存在者」なのであって、この蔽われた<どこからどこへ>こそが「被投性」を在らしめる「存在」なのではないか。