『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その21)

前から不思議に思っていたのだが、「第十七節 指示としるし」と「第三十四節 現-存在と語り。ことば」とは離れすぎている。読みようによっては第十七節は記号論、第三十四節は言語論として読めるのだが、あまりにも離れすぎているので、折角の記号論の着想が言語論にうまく活かされていないのである。このためハイデッガーの言語論においては、言語の道具存在としての性格がまったく論じられないことになる。
これほど二つの節が離れてしまったのは、おそらく言語を論じるうえで共同現存在を前提とする必要があったからだろう。だが、逆に共同性を前提としたことで、言語の媒体としての側面が軽視されるようになったと思われる。あくまで軽視であって、無視ではない。
だが、そのことは一部の研究者から次のように批判される結果となっている。

ハイデガーは、ただ、<世界>において生じている出来事を他者に知らしめる「記号」として機能する音声の特質を、いわばこの記号自身が「飛び越えられる」ことのうちに見出そうとしているのみである。(中略)しかし、たとえ音声が、事柄の指示というみずからの機能の充実のため、目立ちすぎずに飛び越えられなければならないものであるとしても、この音声が、私たちが他者との世界内共存在を顕在的に遂行するための媒体であることに変わりない。(古荘真敬著『ハイデガー言語哲学』12頁)

まさにそのとおり、と言わざるをえない。だが、それは第三十四節を読む限りである。
確かにハイデッガーは言語論としてシニフィアンを問題としなかったが、記号の媒体としての側面については第十七節で論じているのである。
このことを理解するうえで熊野訳の訳注がヒントになる。

ウィンカーは、自動車の部品としてそれが「役に立つdienlich」ありかたにおいては、自動車の他の部品、たとえばウィンカーを点滅させるボタン等々を「指示verweisen 」している。ウィンカーはたほう、自動車の進行を「示すzeigen」道具としては、自動車が曲がる方向を「指示」する。「役にたつこととしての指示」と「示すこととしての指示」は一致しない(熊野純彦訳『存在と時間(一)』378頁訳注)

つまりウィンカーを記号としての道具としてみた場合、その道具の指示連関(ボタン等々)とその道具が記号として示す連関(自動車の進行方向・避けるべき方向等々)は異なるということである。しるしとしての道具存在には二つの連関(「役にたつこととしての指示」と「示すこととしての指示」)があるということだ。そして道具存在は配慮的気づかいによって「目立たない」ときこそ、道具として役立つように、記号としての道具も「役にたつこととしての指示」連関が目立たないことが、「示すこととしての指示」連関が開示される条件である。ウィンカーを道具として見つめすぎると車に轢かれてしまうのである。ウィンカーの指し示す方向を即座に読み取って回避しなければならない。
同様に我々が言語を使用するときも、その道具的側面を見つめすぎて目立たせてしまうと、意味が消失してしまうのである。
すると、ハイデッガーの言語論において、記号としての言語の道具的側面が「飛び越えられる」のは、まさに言語が記号として機能を発揮するための条件ではないだろうか。ハイデッガーはそのことを発見したのであって、彼が飛び越えたわけではない。ハイデッガーは言語の道具存在としての特殊性、すなわち記号道具としての特殊性について既に第十四節において、二重連関として指摘していたのである。
したがってハイデッガーの言語論に欠けているのは、言語におけるこの指示連関の二重性を解明することである。
このことを私なりに展開してみよう。例えば会話における音声、文書における文字などの記号道具の二重連関とは何か。自然科学的にみると空気の振動やインクの染みそれ自体には何も意味はないということになる。だがその「意味がない」というのは言語としての意味がないというだけでなく、自然科学的にみれば、およそいかなる指示機能もないということである。それらはあくまでデカルト的対象として空間の某所を占めているに過ぎない。自然科学的対象として記号の媒体的側面をみると、それ以上の機能はありえないのである。
しかしハイデッガーの道具存在の観点からすると、それらは「役にたつこととしての指示」があるということになる。それらの空気振動やインクは対象存在としてではなく適所性として存在しており、聞く現存在、読む現存在の方を指示しているのである。確かにその連関は「示すこととしての指示」ではないが、デカルト的対象のように単なる空気振動やインクの染みが認識対象として存在しているのではない。
ただこの道具としての指示連関(役にたつこととしての指示)と、言語自体の意味内容の連関(「示すこととしての指示」)は異なる。その限りでは、確かに空気振動やインクの染みに「意味」はないのである。
言語が意味として開示している世界と、言語の道具連関が開示している世界はその点で異なるのである。これが指示連関の二重性である。
だがハイデッガーは根源的には道具の指示連関が基底にあって、そのうえで意味内容の連関が成立するとみていたようだ。

示すことは、(役にたつありかた)の<なにのために>が、具体的に可能なかたちをとったものとして、道具構造一般のなかで、すなわち<のために>(指示)のうちで基底づけられている。(『存在と時間(一)』391頁本文)

ハイデッガーはただそう主張するだけで、なぜこのように指示連関が二重になるのかその理由は説明しない。ただ、道具連関については「配慮的な気づかい」が関連し、しるしの指示連関については「目くばり」が関連するというように、現存在の実存カテゴリーを変様させている。「目くばり」Umsicht(原佑・渡辺二郎訳では「配視」)という独特の用語は、この時から使用されるようになる。
「配慮的な気づかい」もまた世界を開示するのだが、それはあくまでハンマーやドアの把手などが手頃であるというように、表立って意識されない目立たない形で開示するのである。
これに対し、「目くばり」「見わたし」は、配慮的な気づかいが活動している道具連関を全体として開示するのである。
そしてその開示を可能にしているのが、まさに記号という道具存在の二重連関である。
だがハイデッガーは「気づかい」から「目くばり」へのこの転換が、記号存在の二重連関にあることに気づいていながら、それを指摘するにとどめたのである。
なぜそのような転換が、とりわけ記号によって可能になるのかは不明である。あくまで直感だが、現存在の存在可能への投企と適所全体性への「目くばり」は同じことなのかもしれない。
私はそこのところが最も重要と思うのだが、ハイデッガーがせっかく第十七節において記号の道具的性格を解明したにもかかわらず、第三十四節において言語の道具的性格の解明を中断したのは、やはりその転換の理由が不明だったためではないかと思われる。