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『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その22)

<のために>にもとづいて目くばりによって解き分かたれているものそのもの、つまり明示的に理解されたものは、或るものとしての或るものという構造をそなえている。目くばりは<この一定の手もとにあるものはなんであるか>という問いを立て、その問いに対しては、目くばりによって解釈することで答が与えられる。(中略)
この「として」が、理解されたものが明示的なありかたをとるさいの構造をかたちづくる。
(215頁本文)

これは第34節の言語論に先立つ「第32節 理解と解釈」からの引用であるが、この引用文において「目くばり」によって理解されたものが、「として」構造であるとされている。
この「として」は、廣松渉の事的世界観を連想させるが、ハイデッガーの世界観においても内部存在者は単独で存在するのではなく「として」構造として存在することになるのだから、そこから世界が言葉によって構成されているという結論へ到ることが容易に推察されるであろう。
ところで、この「として」構造を見てとるのは、この引用文で大々的に使用されている「目くばり」Umsichtである。してみると「配慮的な気づかい」はそれだけでは不充分なのだ。
つまり「配慮的な気づかい」は世界内部存在者と出会うだけであり、それが世界のもとにおいてあるということを明示的に見てとらないのである。
ここに第二の視線として適所全体性を見渡す「目くばり」が必要となってくる理由がある。第一の視線は個々の道具と交渉する視線であるが、それは道具の適所性である<のために>しか把握しないのである。第二の視線である「目くばり」がこれを適所全体性のもとで個々の道具を世界内部的に捉えることによって、個々の存在者が<として>存在となり、それが解釈となり語りとなって言葉の起源となるわけである。
具体的にはドアの把手を手にしたり、眼鏡をかけているときは、確かに個々の道具と交渉しているのだが表立って意識していない。これが第一の視線である。これに対し、適所全体性は、ドアの把手や眼鏡だけでなく身の回りのすべての道具が何<のために>あるかという連関の全体であり周囲世界を構成するものである。これはそのままではバラバラの指示関係の集合にすぎないが、ここにすべての道具によって指示される現存在が絡んでくると、最終的に<のために>が<のゆえに>と接続して全体がネットワークとして完成される。個々の道具の指示関係は、この予め先立つ適所全体性の中での指示関係となるのだが、これが有意義性である。
なぜ有意義かといえば、個々の指示関係である<のために>が適所全体性の中に位置付けられることで<として>に変様するからであろう。
つまり第一の視線では無意義にみえた「ドアをあける<ために>手に触れるものX」「よく見る<ために>目にかけているY」が、周囲世界を見渡す第二の視線のもとで「把手として」「眼鏡として」把握されることになるというわけである。
したがってこの<として>構造を把握するためには、適所全体性を見渡す「目くばり」が必要になるのである。
問題はこれほど重要な「目くばり」が何によって可能となるかである。
なぜ重要かといえば、「目くばり」は解釈、語り、言語の根底にあるからである。
前回、私は第十四節において道具存在としての「しるし」の解明において初めて「目くばり」が登場することから、「しるし」が第二の視線としての「目くばり」を可能にしており、そのことから「しるし」の解明を通じて言語の道具存在的性格を解明しうるのではないかと推測した。
しかし、よく考えてみると言語を道具とみなすこと自体がフンボルト流の言語観にほかならない。ハイデッガーはそうした言語観をデカルト的対象である「目のまえ」存在として退けているのである。
だから、第十四節は逆にしなければならない。「目くばり」が「しるし」の創設を可能にしているのである。それがハイデッガーの真意であろう。
すると再度問題は残る。何が「目くばり」を可能にしているのか?
道具存在との交渉だけでは全体を見渡す「目くばり」は生じない。それは確かだ。
ハイデッガーは道具が壊れたり欠けたりするとき、道具が表立ってくるというが、その場合も、「別のハンマーを」というように全体ではなく個別の道具が表立ってくるにすぎない。
ハイデッガーの論述は複雑かつ循環論なのだが、やはり現存在の存在了解が「目くばり」を可能にしているということであろう。(ハイデッガーは「循環論に正しく入る」というような言い方をしている)
現存在の存在了解とは自分の存在可能を理解するということだが、例えば現在家がない人が「家に住んでいる」ということを自らの存在可能とするとき、ハンマー、釘、木材等々の道具連関の全体を「目くばり」することになるわけである。
これは特殊な例だが、もっと根源的に自分自身を存在可能として把握するならば、周囲世界全体の適所全体性が「目くばり」によって開示されることになり、個々の内部存在者はその世界のもとで「として」の存在者となり、意味が生じるということになる。それが言語の起源ということである。
このように解すると、現存在の了解、情態、語りが等根源的であるというハイデッガーの主張が理解できる。