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『存在と時間(二)』 ハイデッガー著 熊野純彦訳(その23)

存在と時間』の中に後期ハイデッガーを読み込むのは慎重でなければならないが、反面、人はそう変るものではないということもある。三つ子の魂ではないが、少なくとも存在観そのものは前期も後期もそう大きく異ならないのではないか。
私には「存在」と言えば、なにか存在者を超越したところにあたかも神のようなものとして万物を在らしめる根源のようなイメージがあるのだが、これは日本人として無意識のうちに日本神話の「産霊」(むすひ)の影響を受けているためかもしれない。
論者によってはこの「産霊」とギリシャのピュシス(自然)の類似に着目する連中もいるようだが、ハイデッガーによると根本的に異なるようだ。
まず、ハイデッガーの存在観は常に「存在者」と「存在」がセットになっている。「存在者」を離れて「存在」はないのだ。「顕現的秘匿」とは、「存在」が「存在者」を通じて顕現するとともに「存在者」ではないものとしてその陰に秘匿するということで、もうしつこいぐらいに繰り返される概念だ。
したがってハイデッガーの解するピュシスも「存在」として、一面では自然そのものとして顕現するとともに、他面では自然の背後に隠れるのである。だから「存在者」(=自然としての顕現されたピュシス)と「存在」(=自然を顕現するピュシス)が混同されるのである。それがハイデッガーの言う存在忘却の歴史である。(脱線するがスピノザのいう所産的自然は「存在者」であり、能産的自然は「存在」かもしれない)
この退行し秘匿する存在が、同時に生起し顕現するものでもあるという存在観は、ハイデッガーのなかでずっと変わらずにあったように思われる。

人間はこの身を退けるものに惹かれそれに向かっているもの(auf dem Zuge zu・・・)であり、そこへと向かうことにおいて己を示す者(Zeigender)、端的に存在を証しするしるし(Zeichen)であった。(『ハイデッガーの存在思想』434頁 渡辺二郎著)

ここで言う「この身を退けるもの」とは「存在」のことである。この引用文は昔読んだときはよく分からなかった。なぜ人間が存在を証しする「しるし」なのか?
しかし、人間を「現存在」と読み替えてみると、「現存在」の本質は「存在了解」である。
すると、「存在」は「存在者」の背後へ退行しているが、人間の存在了解はその退行する「存在」へ向かっているのであり、そこがポイントだと分かる。つまりもし「現存在」が通常の存在者であるなら、その「存在」(=実存)もまた「現存在」の陰に退行しているはずだ。そうなると現存在と存在者はその存在をお互いに退行することになり、相互にその存在を秘匿するものとして没交渉になる。
しかし「存在了解」ということで現存在の実存が存在に向かっているのであるから、実存は退行せずに存在へと向かうものとして、現存在という「存在者」から飛びだして己を示すことになる。そこに「実存」から「存在」へという指示関係が生じるのであり、だから実存は存在を証しする「しるし」になるということであろう。そして存在了解である実存が「しるし」であるなら、存在に聴き従うことも可能になるのだ。
今回、なぜこの部分に着目したのかと言えば、前回の記号論において、「しるし」が「目くばり」を可能にしているのではなく、「目くばり」が「しるし」を可能にしているのだと解釈したのだが、その根拠がここに示されていると思うからである。つまり人間である現存在そのものが「しるし」なのである。存在了解そのものが、存在へ向かう実存として、或るものが或るものを示すということで、「記号」となっているということだ。
だからこのブログに書いてある言葉が何か客観的対象としてあるのではない。それはデカルト的存在観にどっぷり浸かっている見方に過ぎない。あなたの実存が存在へと向かっているからこそ、自らを示すものとしてあなた自身が実存から存在への指示関係として記号(しるし)であるがゆえに、これらの言葉が何らかの意味を持つのである。それが現存在である「存在者」から「存在」が飛び出して己を示しているということ、すなわちエク・システンツ(実存)の意味である。そしてこの「己を示す」という言葉は『存在と時間』においても既に見られるのである。
今回の『存在と時間』読解において、「じぶんを指示している」という独特の訳文がどういう意味なのか気懸かりだったのだが、些細なことだろうと指摘するのを保留していた。だがやはり熊野訳は正確なのだ。

現存在はそのつどすでにつねに、或る<なにのゆえに>から一定の適所性の<それによって>へと、じぶんを指示している。(中略)現存在が、じぶんを指示するという様態にあってみずからを先だって理解している<そのうちで>が、存在者を先だって出会わせる<それにもとづいて>にほかならない。(『存在と時間(一)』412頁 熊野純彦訳)

上述のように「じぶんを指示している」とは、現存在の実存が存在了解として「存在者」の「存在」へ向かっていることだから、この引用文はまさに現存在が適所性(=道具の「存在」)へ向かっていることであり、そのことは同時に道具の存在了解だと理解できる。引用文の後半は分かりにくいが、現存在の実存が存在へ向かうことによって、実存が「現存在」という存在者から己を示すものとして現れ、そこに空間的な方向性が生じることになる。その方向性において実存は自己を対象として理解するよりも前に、己が周囲世界の<そのうち>に対象としてあることを了解していることになる。その周囲世界が存在者を先だって出会わせる場となる、ということではないかと思う。
そして『存在と時間』の段階で、すでに現存在が存在を証す「しるし」であることが予告されていることも読み取れる。訳文が奇妙なのではない。ここに示されている思考がユニークなのだ。
こうしてみると言葉の根底にある「語り」が「了解」とともに現存在にとって等根源的であることの意味が分かってくる。そしてそれらがすべて実存である「存在了解」に繋がっているのである。したがって人が「存在了解」を疑いようのないこととする限り、ハイデッガーの思想もまた疑いようのないものとなるだろう。まだ充分な理解ではないが、ようやく薄らと分かりかけてきたような気がする。