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『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その1)

この本はフロイトの謎めいた引用から始まるのだが、吉本の言語理論にとってフロイトは無関係なのだから、なぜ冒頭でフロイトを引用しなければならなかったのかその理由がさっぱり分からないのである。
ただ「発生の機構」というタイトルから類推すると、おそらくここで吉本は前言語的意識を射程に入れたのだと思う。前言語的意識がいかなるものであるかは謎である。原理的に意識はそのことを知ることはできない。しかし、それが実在することを主張したのはフロイトであり、言語の発生段階における前言語的意識としての性的幻想を吉本は否定するのだが、なんらかの未知の意識Xを想定しているのではないかと思う。
ほとんどの論者が誤解ないし誤読をしているのだが、吉本の「意識」概念は前言語的意識を含んでいるのであり、特に言語の発生段階における意識が前言語的であることは文脈からみて自明である。

こういう見地から言語発生の機構をみることは、人間の意識の自発的な表出の過程として言語の成立をみることを意味しており、意識の実用化の過程として言語をみることとまったく位相がちがう(『吉本隆明全著作集6』勁草書房以下同16頁)

こういう文章を読むと吉本の言語理論は、いわゆる言語論的転回(意識に対する言語の先行性を主張)以前のものであり、<古い奴でござんす>という印象を受ける。
だが、この「人間の意識の自発的な表出」の「意識」は文脈から考えて言語成立以前の意識であることが明らかである。すると次に二つの問いが提起される。
①自発的表出の過程として言語を成立させる「意識」とはいかなるものか。
②意識から表出されて成立した言語が客観的存在であるのはなぜか。
この①と②は関連しているが、まず①が何であるかを言語によって説明することはできない。それはいわば知の蝕のようなものである。吉本はそこに海岸に迷い出た狩猟人などのイメージを置くのだが、この狩猟人の意識が近代的主観でないのは確かである。
むしろ吉本自身が参照しているマルクスと比較すると、それは抽象的人間労働に相当すると思われる。この抽象的人間労働は有用性とは無関係にすべての人間に共通するものだが、それ自体としては見えないものであり、貨幣が成立して交換が行われて初めてその存在を名づけることができるXである。またすべての人間に共通するものであるがゆえに、交換も可能となるのである。だが抽象的人間労働の実体的な大きさは貨幣で表出するしかないものである。
同様に狩猟人の原意識も、個体としての意識ではなく、類的人間から未分化の前言語的意識である。言語が客観的存在であるのは、主観的意識から表出されたからではなく、類的存在としての前言語的意識から表出されたものだからである。
私はそのように解釈するのだが、ではその前言語的意識とは何かと問われても、答えようがない。言ってみれば集合的無意識のようなものかもしれない。(私はユングには関心がないが、他に適当な用語がない)ただ、言語が成立した後では、あたかも主観的意識のように見えるとしか言いようがないものであり、それは貨幣が成立した後で、抽象的人間労働が価値として商品の内面に存在しているように見えるのと同じである。
吉本もマルクスもともに「類的人間」が思考の出発点となっている。これもまた古い疎外論を連想してしまうが、よく考えてみると「類的人間」は謎めいている。それが何であるかは何の説明もないのであるが、そもそも説明できるものではない。個人の集合体としての「人類」ではないことは確かである。個人が成立する基盤となるものであるから、個人意識では把握できないものである。
だが、「抽象的人間労働」が類的人間を前提としていることは明らかである。それは個人的労働力としては怠惰であっても、社会的平均労働力として作用しているのだから。ただ、そのことが分かるのは、あくまで貨幣による商品交換によってである。
吉本はこの発想を言語に適用したのである。
貨幣が成立する以前の原始社会においても共同作業は存在したであろう。その社会における抽象的人間労働は対象化されておらず、あらゆる労働に伴っている。
同様に言語が成立する以前においては集合的無意識があり、指示対象は対象化されておらず、人間と対象とが融即している。
商品交換によって抽象的人間労働が貨幣へと外化されるように、対象を指示しあうことを通じて集合的無意識(狩猟人の原意識)が言語へと外化される。これが自己表出である。
(このことは吉本が自己表出に価値を対応させ、指示表出に意味を対応させていることとも一致する)
よく考えてみれば言語というものは不思議なものであり、一面では個人の内面を表すとともに他面では他者にも伝わるものである。このハイブリッドな存在が人間から生じてきたのであれば、その発生源である「人間の意識」が主観的意識ではなく近代人の内心でもなく、集合的無意識であることは自明であろう。
するとどうなるか。
貨幣が抽象的人間労働の代理物であるのと同様、言語も集合的無意識の代理物である。
つまり個人の主観的な思いを言葉で言い表したものが、類的人間の集合的無意識の代理物だということである。だから他人に伝わるのである。あるいは本当は集合的無意識しかなく、個人の心は言語が生み出しているのかもしれない。
吉本が自己表出の水準の歴史的変遷を主張しうる理由は、作家の創作活動においても、この類的人間の集合的無意識が言語として表出されつつあることを根拠としている。
まあ、私の説明はものすごく古風であることは自覚している。ただ「類的人間」という概念に少し異なる光を当ててみたいと思うのは、この時期の吉本もまた初期マルクスを参照しているからであり、そこから吉本が何かを掘り当てているのは確かであるように思われるからだ。