『言語にとって美とはないか』 吉本隆明著(その2)

この本のタイトルになっているのだから、「言語にとって美とはなにか」という問いの答を一応確認しておこう。答は「文学」である。だからこの本は言語芸術としての文学論なのである。その根拠は次の引用文である。

言語にとっての美である文学が、マルクスのいうように「人間の本質力が対象的に展開された富」のひとつとして、かんがえられるものとすれば、言語の表現はわたしたちの本質力が現在的社会とたたかいながら創りあげている成果、または、たたかわれたあとに残されたものである。(86頁)

答を確認しても分かったような気がしないのは、ならば文学が美であるとはどういうことかという疑問がただちに生じるからである。これは問いを置き換えているに過ぎない。
ただこの引用文を読むと、吉本は言語にとっての美である文学を、人間の本質力が創りあげた成果として捉えていることが分かる。「人間の本質力」などという言葉は曖昧であり、幾重にも解釈が分かれると思う。だが「マルクスのいう」ことに即して解すると、その対象的富に転化する本質力は具体的有用労働と抽象的人間労働の二つの側面がある。同様に文学についても、①作家の自己意識が創りあげた美という具体的側面と、②類的人間の集合的無意識(つまり「わたしたちの本質力」)が表出した言語の美(変革)という抽象的側面の二つがあるはずである。
表出史においては作品分析の性格上、吉本は自己表出を①の視点で説明している箇所もあるが、自己表出の歴史的水準などは明らかに②の視点に立っている。
また常識で考えても文学作品が作家の自己意識にすべて還元されることはありえない。
二葉亭四迷は維新後の社会を描写するために落語の文体を借用したのだが、それは新時代の文学を創造したいという自己意識であると同時に、類的人間の集合的無意識が言文一致を創造する過程でもある。言文一致は時代の要請であり、たまたま二葉亭四迷の文学活動に集約されたにすぎない。さもなければ定着普及することはなかったであろう。明治以後の新社会について戯作調の文では対応できないのは言うまでもない。
本書を離れて思うのだが、私は自己意識を先鋭化させて突出させることは類的人間としての側面がある限り、必ずしも醜いことではないように感じる。それが醜いのは自己中心的な上辺だけの先鋭化であり、何も新しいことを産み出していない場合である。
文学作品を美とするのは当たり前すぎてとりとめもないが、少なくとも吉本の文学観には言語の創造を美とする視点があるように思う。言語学者なら、それは語彙の変化であって言語構造の変化ではないから言語の創造ではないと言うであろう。確かに日本語は過去も現在も粘着語であり続けているから変わらない面もある。だが他面では日本語が社会の変化とともに変化し続けていることも確かであり、表出史はそうした変化を対象としているのである。
この本の第1・2章は言語の基礎理論であるが、第4章の表出史へと接続するために第3章において言語表現の諸形態として韻律・選択・転換・喩が扱われている。
そこでよく分からないのが自己表出と言語表現の違いである。
この違いを理論的に説明しているのが第2章の後半なのだが晦渋である。
吉本の言語理論は要約すれば、意識が現実対象を直接指示表出することは不可能であり、自己表出によって有節音声を励起することによって、はじき出された有節音声を現実対象の代理とすることで指示表出を可能とするものである。(32頁第2図)
この図の矢印が何を意味するのか不明であるにせよ、読み方によってはラカンに通底しうるものであり、決してつまらない言語論ではない。
読み方によってというのは、私はこの意識を「集合的無意識」と「自己意識」の複合体と解するのだが、言語の創成期においては「自己意識」が限りなくゼロに近いことは言うまでもない。そして「集合的無意識」の面から言語の創成を捉えると、ラカンの言語観に近づくのである。確かに意識は現実対象(現実界)を直接指示できない。言語による想像界を現実の代理とせざるを得ないのである。矢印をそのように解することができる。
(商品同士の直接交換が不可能だから貨幣という媒介を必要とするように、意識と現実対象との直接的一致が不可能だから言語を必要とするのである。吉本がラカンと通底するとしたら、それは両者がともにマルクスを参照しているからであろう)
そして幼児期において象徴としてのファロスにより言語を獲得する代償として現実(自己と対象との融即)を喪失することを考えれば、歴史を通じて言語が自己表出として再創造されていること、そして表出史が可能となることも理解できる。
分からないのはそのことと言語表現との関係である。
本書に書いてあることは読める。つまり文字により言語が対象化されることで、表出と表現が分岐したというのである。

文字の成立によってほんとうの意味で、表出は、意識の表出と表現とに分離する。あるいは、表出過程が、表出と表現との二重の過程をもつといってもよい。言語は意識の表出であるが、言語表現が意識に還元できない要素は、文字によってはじめて完全な意味でうまれるのである。文字にかかれることによって言語表出は、対象化された自己像が、自己の内ばかりではなく外に自己と対話するという二重の要素が可能となる。(89頁)

この文章が分かりにくいとすれば、それは「意識」を自己意識と取り違えているからである。つまり<言語は(自己)意識の表出であるが、言語表現が(自己)意識に還元できない・・・>と読むと意味不明であろう。言語が自己意識の表出であるならば、自己意識に還元できない過剰な要素が言語にあるというのは矛盾である。
私は前半の意識は後半の意識と異なると考える。すると次のように補って読むと意味が通じるのである。
言語は(集合的無)意識の表出であるが、言語表現は(自己)意識に還元できない。
この部分の吉本の説明が分かりにくいもう一つの理由は論理に飛躍があるからである。突然、天から文字が降ってきてそれが言語を表出と表現に分岐するのである。だが音声言語と文字言語をそのように対立的に捉えると、それまでの有節音声としての言語発生論が文字言語にどう繋がるのか分からなくなる。そこで「人間の意識」とか「人間の本質力」というものが「自己意識」だけでなく、自己意識と集合的無意識の複合体であると考えると、自己意識に還元できない言語表現の要素とは音声とか文字などのシニフィアンとしての言語であって、それらは集合的無意識の外化であり、「自己意識」に還元できない過剰があるのはそのためであることが明瞭となる。
こうした観点からすると、音声と文字との違いは相対的であって音声にも自己意識に還元できない過剰があるのであって、文字が対象物としてより外化が進んでいるにすぎない。
表出と表現がドイツ語では同じausdruckであることも違いが分からない理由である。だがこのことも、言語創造の能動面を表出、受動面を表現と捉えれば明瞭となる。
つまり言語創造の能動面(能産的側面)においては、人間の意識複合体のうち、集合的無意識が有節音声としてあるいは文字として自己表出されるのである。だが言語創造の受動面(所産的側面)においては、創造された言語表現の中に自己意識が表現されるのである。
このことは結果としての言語表現の中に自己意識が表現されているということを意味する。言い換えれば表現主体は集合的無意識であり、表現結果の中に自己意識が結果として表現されているということである。
吉本の真意がどうであったか本書を読む限り不明なのだが、吉本が詩人である限り、自己意識を主体ではなく言語表現の結果としてみる言語観が根底にあったことは間違いないと私は信ずる。この文章を書いている私も自己意識ではない。自己意識は後から生じている。ラムボオの言うとおり、我とは一箇の他者である。
第4章の表現転移論が分かり易いとすれば、それは言語表現の結果としての自己意識を表現主体と取り違えているからである。そのような取り違えはまさに表出史を文学史と取り違えることに他ならない。