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『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その3)

さて第3章であるが、この章は吉本の言語理論(第1・2章)と表出史(第4章)を繋ぐ鍵となっている。したがってこの章の理解が不充分であると、言語理論を基礎として文学史を表出史として捉えるという構想全体が曖昧となるのである。
だが、まさに本書が難解であるのは、この章において吉本が言おうとしていることが不明瞭だからである。私は何度も読み返すのだが未だによく分からない。
引用された作品の読みが見事であるにもかかわらず、理論的な意味が不明瞭なのである。このアンバランスは払拭できない。
どうも吉本は自己表出を社会に対する反逆の論理として捉えているフシが感じられる。
確かに個人は社会と矛盾対立する。したがって作家個人が自己表出をせり上げていけばいくほど、その言葉は理解不能になり、社会から撤退することになるというわけである。
特に清岡卓行の詩の読みにおいて、そのことが感じられる。

ぼくがぼくの体温を感じる河が流れ
その泡のひとつは楽器となり
それを弾くことができる無数の指と
夜のちいさな太陽が 飛び交い
ぼくのかたくなな口は遂にひらかず
ぼくはぼくを恋する女になる    
清岡卓行セルロイドの矩形でみる夢」)

この詩について吉本は次のように解説している。

言語が極度に自己表出をつらぬこうとして使われているため、意識の指示表出としての関係をたどることができないほど、言語の対他が消失してしまっている(中略)<ぼくの体温のような温い水が流れている河>という意味には必然性はないが、いったん<ぼく>の現実世界での存在の仕方を、その河の流れの幻想のなかに封じこめれば、そのなかで、泡のひとつが楽器になるという喩は、必然性をおびてくるようになる。(中略)もちろん、このような表現は、自己表出としての言語を、表出の意識自体が空間化できないような奥から、薄明のようなところからおびきだしていることによって成り立っている。(131頁)

確かに清岡卓行の詩は吉本の指摘するとおり意味不明の文である。だがしかし、吉本の言語理論からすると自己表出を極度につらぬくならば、指示表出が対象とする現実はより精緻になり拡大されるのであり、縮小することはありえないのである。
「言語の対他が消失してしまっている」というのも無茶な解釈である。対他が消失してしまえば、それは詩ではない。
自己表出を極度につらぬいているにも関わらず、対他が消失していないからこそ、それは詩として成り立っているのだ。
清岡卓行の詩においては「現実世界での存在の仕方」が「幻想のなかに封じこめ」られているのではない。逆である。その詩が言葉によって新たな現実を産み出しているのだ。
その新たな現実は、これまでの共同体には見えない現実であるが、類的人間の世界においては新たに出現した現実である。だからこそその詩は類的人間である読み手に届いているのである。
吉本自身、言語にとっての美である文学が「わたしたちの本質力が現在的社会とたたかいながら創りあげている成果」であるとしている。その文学観からすると、文学の意識が現実から縮小撤退することはありえないのである。それが浮き世離れした戯言のように見えるのは、個人の集合である共同体に属しているからである。何度も言うが類的人間は共同体ではない。
それにしても第3章に理論的意義があるとすれば、それは「言語にとっての美」を言語表現の価値とすることにより、表出史を言語表現の価値増殖過程として捉えることに道を拓いているからである。そして言語表現の価値とは、言葉の既存の意味を新しい意味にすることである。吉本が「喩」に着目するのは、それが隠喩であれ換喩であれ、既存の言葉の結びつきとは異なる結びつきで新たな意味を産み出すからである。そして「喩」が縮退したのが「転換」であり、それがさらに縮退したのが「選択」である。つまり個人が何らかの言葉を選択することは、独自の選択であるから、一般的な使用とは異なる「喩」へと上昇する最初の契機となるのである。
こうしてみると、この第3章は第1・2章の言語理論を言語表現に適用したものではなく、独自の理論的意義があるように思われる。つまり第1・2章では既存の言語学の諸理論を検討していく中で、カッシーラーなどを参照しつつ、マルクス疎外論を適用して独自の言語理論を構築したわけだが、その言語観は自己表出と指示表出との複合体として安定したものであった。だが第3章では詩の実作者として共同体と矛盾対立し、さらには自己表出を突出させて言語の指示表出にも対抗するというように単独者の視点が強く打ち出されているのである。この単独者の視点が表出史のダイナミズムに繋がっていくのであるが、理論的に表明されていない。ただ、「言語表現の内部で抽出された共通の基盤」として韻律・選択・転換・喩が説明されているだけである。
もちろん吉本はそれらを単に分類するだけでなく、それらの関係について「縮退」という言葉で説明しようとしているのだが、この「縮退」という概念は第3章で初めて出現するものであり、第1・2章の言語理論においてどういう位置付けなのかよく分からないのである。だがこの「縮退」という概念によって、単独者として言葉を選択することが最終的には喩へ発展することで言葉の既存の意味を変革することへ繋がるのであるから、これほど重要な概念はないであろう。
理論的に明確ではないが、吉本は何かをここで見ていたのである。それが何であるか第4章以降の表出史によって考えてみたい。