『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その4)

以上のような問題意識をもって読むと第4章の表現転移論が実に面白い。昔はこの章をよくできた文学史のように読んでいたのだが、やはり「1 表出史の概念」が重要である。サルトルが『弁証法的理性批判』で大騒ぎでやったことを、吉本は言語理論であっさり片付けているからだ。
ここで吉本は単独者の視点を指示表出に、類的人間の視点を自己表出に対応させているのである。

ひとつの作品は、(略)異質な中心をもっている。(略)言語の指示表出の中心がこれに対応する。(略)あるひとつの作品は(略)決定的な類似性や共通性の中心をもっている(略)この類似性や共通性の中心は、言語の自己表出の歴史として時間的な連続性をなす(157頁)

「言語の自己表出」を自己意識の表出と勘違いしていると、この文は意味不明であろう。なぜなら自己意識こそが単独者であるから、それが類似性や共通性の中心として時間的な連続性をなすというのは矛盾である。吉本は転倒したことを言っているように思えるのだ。
自己表出こそが異質性の中心であり、指示表出が社会的な対象に向かうものとして類似性・共通性の中心をなすのではないか?
だが「自己表出」を、類的人間意識の自己表出であると解釈すれば、吉本の言うことは納得できるのである。類的人間の集合的無意識(吉本の言葉では「わたしたちの本質力」)であるからこそ、それは類似性や共通性をもち歴史を形成するのである。
一方で吉本は単独者の意識も捨てないのである。吉本にとって「意識」とは自己意識と集合的無意識の複合体なのである。だから、残余の「自己意識」は単独者として指示表出へ向かうのである。
私の中には単独者として唯一の思いがある。この思いは誰にも理解されないものである。それを指示表出しようとすると、通常の言葉では言い表すことができない。だから言葉を独自の方法で選択する。それが喩として言葉の新しい意味が創出される。だが単独者として指示表出しようとした思いが言葉として表現されると、それは集合的無意識の自己表出として他人にも理解しうる類似性をもった表現となるのである。「あたらしいぞわたしは」(荒川洋治)と言ってみても、その新しさは類的人間としての読み手に理解しうるのである。
吉本は「自己表出」「指示表出」の両概念を言語構造を説明するうえで便利のよい概念として提出しているのではない。言語において単独者の意識と類的人間の無意識が融合しているからこそ、それを解明するものとして提出しているのだ。シュティルナー流の実存主義の流れとマルクス主義の流れがここで統合されるのである。さらに構造のダイナミズムも説明しうるものとなる。
そこで吉本は表出史として明治以後の近代文学の作品を対象にするのだが、その理由は「現在への問題にちかづきやすいというほかに、どんな理由もない」(165頁)というのである。
だが、吉本の表出史の概念を見てみよう。

ひとつの作品から、作家の個性をとりのけ、環境や性格や生活をとりのけたうえで、作品の歴史を、その転移を考えることができるか(略)いままで言語について考察してきたところでは(略)ただ文学作品を自己表出としての言語という面でとりあげるときだけ可能なことをおしえている。(163頁)

つまり事件も環境も個性もすべて取り去るということは、いかなる物語もないところで、歴史を露呈させるということである。それは指示表出から時間によって逃れ去るものの後ろ姿としてしか捉えることができない。その後ろ姿が「明治」ではないか。

文学のような書き言葉は自己表出につかえるようにすすみ、話し言葉は指示表出につかえるようにすすむ。(164頁)

昔この部分を読んで、私は文学体が自己表出に、話体が指示表出に対応すると誤解したのだが、吉本はそんなことは言っていない。むしろ文学体と話体という異なった言語表現の型が自己表出としてみると同じ位相にあるものとして捉えることができると言っているのだ。
話体としての「真景累ヶ淵」も文学体としての「佳人之奇遇」も言語表現の型としては戯作と漢詩体というようにまったく異なっているが、自己表出としてみると同じ位相にあるというのである。なぜそんなことが言えるのか。
単独者としての作者の自己意識は指示表出として場面の選択に向かうのであるが、その選択についてみると両者ともに「無限に可能なやりとりのなかから任意のひとつを択んだもの」(168頁)という点で共通しているのである。したがって選択から場面転換によって独自の描写(喩)に近づくとしても、そこでの自己表出は指示表出と同様に任意性を帯びたものとなる。次の引用からそのことが明らかに読み取れるのである。

ヘェお痛みでござりますか、痛いと仰しやるがまだまだ中々斯んな事ではございませんからナ。(以下略)(円朝真景累ヶ淵」)
時ニ金烏既ニ西岳ニ沈ミ新月樹ニ在リ夜色朦朧タリ(以下略)(東海散士佳人之奇遇」)

この二つの文が同じ位相にあると見抜く吉本の眼力は、フーコーエピステーメーを思わせるようなところがある。アルシーブと表出史はともに物語を排除するという点で類似しているのかもしれない。
だが吉本の場合、単独者の周囲の環境に対する闘いは、指示表出の単独性として志向され、それが言語表現された瞬間、類的人間の自己表出として他人にも理解される形になるのである。だから自己表出は共通性・類似性の性格をもつものであるとしても、その位相は常に指示表出の単独性により変革されうるものである。それが表出史のダイナミズムである。

眠られる儘に過去将来を思ひ回らせば回らすほど、尚ほ気が冴て眼も合わず(以下略)(二葉亭四迷浮雲」)

二葉亭四迷の場合は周囲の環境に対する指示表出の単独性が明確に自覚されていることが分かる。現代からみると単独者というほどの独自性がないとしても、「時ニ金烏既ニ西岳ニ沈ミ・・・」と比べると、とんでもなく単独であることが分かる。
このことが落語という話体を借用しながら、指示表出の単独性によって、「話体から文学体へ美的な体験の中心を抽出してゆく過程を最も鮮やかに徹底的につきつめたもの」となるのである。つまり二葉亭四迷は自己意識としては話体を採用していたのだが、指示表出の単独性によって、類的人間の自己表出としてみるといつの間にか話体から文学体へ移行し、「今日の小説文体の基礎を築いた」のである。
逆に鴎外の『舞姫』は、自己表出としてみると文学体から話体へ移行したのだが、指示表出としての視線の単独性が背景にあることは言うまでもない。不自由な対句表現ではなく、作者による場面選択の独自性が明瞭だからである。
こうしてみると戯作だから話体、漢詩体あるいは擬古文だから文学体というわけではないことになり、ならば何をもって話体と文学体を区別するのかという疑問が生じてくる。
吉本は、話体とは自己表出の水準を固定して指示表出を拡大するものであり、文学体とは指示表出の水準を固定して自己表出を高度化するものとしている。(176頁第6図)
つまり「舞姫」が文学体から話体への移行であるのは、擬古文という表現を維持しつつ、慣用的表現ではなく、独自の視線によって指示表出を拡大しているからである。
浮雲」が話体から文学体への移行であるのは、鴎外と同水準の視線を落語の文体で表現しているために、いつのまにか新しい言語表現となっているからである。
吉本は文学体から話体への移行を自覚的とし、話体から文学体への移行は無自覚であるとしているが、自己表出が類的人間意識の表出であることを勘案するともっともなことである。