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『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その5)

第4章の「表現転移論」については、著者による引用文の読みの深さと見事さにはいつも圧倒されるのだが、昔読んだときと同様、途中で論理がすり替わったような異和感がぬぐえないのである。
いわば言語理論にもとづく表出史から始まり、いつのまにか実作者の表現意識の分析へ移行しているような感がある。どうも言語基礎理論に対して言語表現理論が追加されているような気がしてならない。つまり自己表出と指示表出の二つの座標軸だけでは説明しきれない視点が混入している疑いがある。その兆は次の文である。

文学体から話体へ、話体から文学体への通路が飽和にたっしたある段階である。(略)わたしたちはこれを言語の対自意識と対他意識とのある調和とみるのであって、作家たちはある位置を占めるとき生活と観念の水準とをうまく和解せしめることができたもの、ということができる。現実との相剋の意識が現実からの疎外と釣合うといってもいいし、現実との和解の意識が現実の安定と見合っていたといってもいい。(193頁)

この「言語の対自意識と対他意識」は意味不明の言葉だが、作家が言語を使って何かを表現したいというのが対自意識であり、その表現が他人にどう伝わるか、他人にウケるにはどのように表現したらよいかというのが対他意識であると私は思う。
すると何かを表現したいという点では指示表出に対応しており、他人にウケるために気のきいた表現を工夫するのは自己表出に対応しているように思う。
作家は対他意識として常に垢抜けた言語表現を工夫しているのだが、意識的に工夫してみたところで成功することはありえない。文体とは意識的に創造しうるものではなく、現実との闘いの中から自然に生まれてくるものである。作家が意識的に追及しうるのは、何かを表現しようとするその何かであり、現実生活において単独者の視点でそれを選択することだけである。それが「生活の水準」であり、指示表出の単独性に対応するのだ。
そして言語は指示表出と自己表出の複合体であるから、指示表出の単独性は必ず自己表出の変革に繋がるのである。言語の自己表出は類的人間意識の表出であるから単独性はないが、新しい表現が加わることで時代とともに変革されるのである。それは意識されない自然過程のようなものである。
例えば森鴎外の『舞姫』は擬古文で書かれているが、指示表出の単独性により、擬古文による描写として話体と融合した新しい自己表出となっている。少なくとも、視線の動きや内心が個性的に表現されていることから、伝統的な擬古文ではなく、言文一致へやや近づいた擬古文である。吉本はしばしば話体への接近を通俗化としている事例を取りあげるが、それは指示表出が類型的かつ因習的な作家の場合に限られる。鴎外の指示表出は単独性があるから、話体への接近は自己表出としてみると、伝統的な擬古文よりも高いのである。文学体から話体へ接近するとき、単独者として話体に接近するならば文学体もまた高度化すると私は思うのだが、それは鴎外の擬古文を伝統とみるか革新とみるかの違いであろう。私は革新とみる。
したがって自己表出に対応する「観念の水準」とは、作家の自己幻想ではなく、現実との闘いの中から抽象された結果としての言語表現の水準である。
私は以上のように解するのだが、これは言語理論ではなく、作家の創作意識に踏み込んだ表現理論であろう。しかし吉本がそうした視点を導入したのは、やはり表出史のダイナミズムを説明するためには、補助理論として作家の創作意識に踏み込む必要があったためと思われる。この作家の創作意識を解明する言語表現理論と言語基礎理論が統合されるのは、吉本がアンリ・ピエロンの『感覚』を引用して次のように解説している所である。

意識にとっての<時間>や、意識の表出過程としての<時間>は、この生理的な<時間>と自然の<時間>に外からはさみうちされ、両者の矛盾にさいなまれて、そのあげく虚空に張り出したものをさしている。この<意識>の時間は、生理的な<時間>や自然の<時間>とちがって、生理現象や自然現象に還元することができない。(281頁)

生理的な時間とは、例えば体温の違いによって時間の経過速度の知覚が異なるということである。人間が感じる時間の恒常性は、体温の恒温性に依存しているのである。
私は『心的現象論序説』における心的領域の時間・空間がどういうものか分からなかったのだが、この箇所で説明されているので、やはり吉本隆明を理解するには全著作を読む必要を痛感した。
意識の時間が生理現象や自然現象に還元できないというのは、吉本の説明では、例えばある文学作品が一生を描いているにも関わらず、読むうえで二時間の自然の時間しかかからないということである。
そして吉本は言語表現の<時間>を考えるのだが、それは「言語の自己表出が、その指示性によって、停ったり拡大したり」することができるからである。
なにも難しいことを言っているのではなく、細密描写すれば時間は停滞し、<あれから1年>と書けば時間は飛ぶということであるが、吉本はさらに深く指示表出との関連を考えている。つまり、指示表出における選択が任意のものであれば、細密描写すればするほど時間は停滞する(野間宏などを例としている)が、選択に何らかの必然性があれば細密描写しても時間は流れるというのである。例えば、三島由紀夫の『金閣寺』において主人公が金閣寺に入ったあとの描写は細密を極めるのだが、場面が漠然と選択されているのではなく、思想的倫理性をこめて選択されているので、自己表出としての時間が流れると吉本は説明している。
かくして作家の言語表現の分析と言語理論を統合することにより、自己表出と指示表出が、時間性と空間性に対応するのである。
吉本には『固有時との対話』という詩があるが、表出史が歴史であるなら自己表出には固有時があり、それを進めるか停めるかは、作家の指示表出が単独であるか通俗であるかにかかっているものと私は思う。