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『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その6)

私の解釈は、吉本のいう「意識」は自己意識と集合的無意識の複合体だとするものだが、これは私のオリジナルであるから、吉本の本来の考えとはズレているかもしれない。
むしろ、無意識こそが資本主義の高度化とともに現実からの疎外として出てきた、まさに19世紀以降に出現した新しい概念であり、それを言語創成期の原始人にあてはめることは現代人の立場からみた錯覚かもしれない。(私は無意識は抽象的人間労働と同じく人間とともにあり、それが資本主義の高度化によって露呈して、フロイトマルクスによって発見されたと思う)
確かにそれを無意識と言うのは言い過ぎかもしれない。だが、それを無意識と呼ぼうと、あるいは言霊と呼ぼうと言語には何らかの自己意識の過剰があるのであり、吉本が自己表出にその過剰を見ていたと解すると、この著作にみられる矛盾とも思えるものについて一応の整合性が得られるのである。
矛盾というのは、自己表出が一方では共通性・類似性をもって歴史を通じて累積されるものであること、つまり「表現の内部では」共同幻想性を帯びていると同時に、他方では作家個人の現実からの疎外として観念性をもった個人の幻想性として捉えられていることである。
また文学体から話体への下降は意識された過程だが、「これと逆に」話体から文学体への上昇は「表現の内部では」自然の過程であると述べられている。(180頁)
つまり作家は自己意識としては現実からの疎外を幻想として自己表出するのだが、表出されたものは無意識として時代の刻印を帯びるということである。
さて第5章の構成論は冒頭から何を言っているのか意味不明だったのだが、以上のように解すると吉本の言うことがだんだん見えてくるのである。記紀歌謡の成立過程について諸説に触れたあと、吉本は次のように述べている。

ひとびとは、あるいは理解しないかもしれないが<書物>が成立する過程は、口承によって流布されたものでも、個人の創造によるものでも、本質的にかわらないのである。まず、ひとりの個人にモチーフの萌芽が到達し、しだいに形をあらわし、それがたくさんの削減や修正や休止をへてひとつの<書物>に凝縮する。とおなじものを、もし記紀の背後のたくさんの口承のあいだに想定するならば、口承歌謡がひとつの<書物>のなかに成立する長いあいだの、まったく異質ともいえるさくそうした流布と沈滞の期間を想像することができる。(342頁)

ここで言っていることは個人の自己意識による創作過程も、集団による創作過程も<書物>としてみると本質的に同じ過程として想定できるということである。なぜ、そんなことが言えるのか? それは言語として表出されたものが、自己意識と集合的無意識の錯綜だからではないか。だから作家の自己意識は集合的無意識でもあるのだ。それを代理するのが言語である。そのことを逆にみると集合的無意識をあたかも作家の自己意識のように想定することも可能となるのである。
このことは記紀歌謡の成立について、それがいつごろ口承され、いつごろ蒐集されて文字として記録されたかという事実考証(芸術の祭式発生説)だけでは不充分であり、それとは「異質な上昇」(343頁)として記紀が成立したという見解に結びつくのである。
吉本の折口信夫の評価はそうした視点に立っている。折口の直観が吉本の言語理論によって位置付けられているのである。
折口は記紀以前に「神の独り言、いいかえれば巫師の神憑り状態の表出としての叙事詩の原型と、神の意思表出としての片歌の原型」を想定しているのだが、吉本によると「たとえ実証がこれをくつがえしたとしても、想像的真としての意味はきえない」と高く評価している。吉本がこの折口説を祭式発生説と区別して高く評価しているということは、巫師の神憑り状態を祭式としてではなく、集合的無意識としてみているからではないか。そしてこの集合的無意識が自己表出として「異質な上昇」をとげたのが記紀歌謡なのである。吉本がそのような言い方をしないのは、フロイト的な解釈と区別するためであろう。私も便宜上フロイト的な用語を借用しているだけである。フロイトの図式では意識と無意識が外在的に対立しているようだが、吉本の無意識観は自己意識と錯綜しているように思える。だから、この「神の独り言」が記紀歌謡として成立することが、作家の自己表出と本質的に同じ「異質な上昇」となるのである。吉本は折口が詩人であったからこそ、本質的に同じ過程として洞察できたのだとしている。そのことは詩人である吉本についても言えることである。

近頃、私は思うのだが、吉本の文章が難解かつ不明瞭であるのは、外来思想を無批判的に日本の現実にあてはめることが現実から乖離した日本型モデルニスムスの空転であるとする吉本の根本態度(『転向論』)に由来するのではないかと推測している。にも関わらず吉本自身も「疎外」や「意識」などの外来用語を使用せざるを得ないのである。その自己撞着がすがすがしさとは対極の晦渋な文章となるのではないだろうか。だからそれらの外来用語はあたかも「かのように」という保留があることに留意しなければならない。すがすがしい解明の「半歩手前」でとどまる必要もあるかもしれない。だがそのことは曖昧さとは断固として異なるものであり、日本の現実を総体としてつかまえようとする苦闘である。吉本を理解しようとしない者はその言語理論を詩人の戯言とみるかもしれないが、私は吉本隆明を総体として全部理解したいのである。