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『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その9)

土佐日記」「かげろふ日記」「和泉式部日記」などの日記文学について、吉本はそれらが説話物語と異なり表現者の内的世界に主題を集中させることで自己表出性を高めたとしている。そして「源氏物語」は宇津保物語によって統一された説話物語と自己表出性を高めた日記文学との総合であるとし、前半と終末の宇治十帖との色調の違いは、説話系から日記系へ移行したからだとしている。

源氏物語の構成は、宇津保物語をそれほどしのぐものではない。光源氏三代にわたる世界を<相聞>によって連結しながら、しだいに年代の移り変わりを追うという説話的な連環をこえて、統覚された構成をもつものとはいえない。しかし、作者(たち)によって意識せられたといなとにかかわらす、発端の説話的な言語が終末の日記文学系の言語にうつりかわる過程には、わずかに内在的<時間>の流れを象徴する長篇としての首尾が表現せられたということができる。(441頁)

つまり「源氏物語」が価値があるのは、それまでの説話物語や日記文学の流れを総合しているからであり、源氏物語に憧れる「更級日記」や主題の特異性を強調する「とりかえばや物語」などは作者と時代との普遍的なかかわりがないということである。
吉本は物語から劇への発展を論じる前に、初めて「構成」概念を次のように明確にしようとするのだが晦渋である。

構成としての言語は、詩と物語のあいだでは、いわば<仮構>線をさかいにして<飛躍>するということは、わたしたちの考察がみちびいたもっとも主要なテーマである。(略)文学作品の構成とは、指示表出からみられた言語の展開の力点の転換である。(442頁)

吉本はX軸を指示表出、Y軸を自己表出とする二次元の座標平面を多用するのだが、その座標平面を「ジャンルとしての言語芸術」とすると、「飛躍」とは座標平面がY軸方向へ垂直に平行移動したものとイメージできる。このとき、Y軸の自己表出は連続的上昇であるが、X軸の指示表出は不連続の飛躍となる。これが「指示表出からみられた」「力点の転換」ということであろう。つまり「構成」とはジャンルである「座標平面」の平行移動のことであり、垂直方向への平行移動である「飛躍」が「詩」と「物語」のジャンルを区分することになるのである。
だが、吉本は構成論のはじめにおいて自然疎外と対人疎外の二つを構成の初源としていた。そのこととの繋がりが説明されていないので晦渋なのである。
私の読みがまだ足らないのかもしれないが、吉本は疎外論と言語理論との繋がりを「構成」によって暗示しつつ、それを明確にしていないように思われる。ずばり言えば、自然疎外・対人疎外は自己表出・指示表出とどのような関係にあるのかということである。自然疎外としての呪言が自己表出、対人疎外としての律法が指示表出に対応するのだろうか? 
これは本書だけではなく、共同幻想論や心的現象論をふまえたうえで自分で考えるしかないのかもしれない。
さて劇とは何か、という問いに対して、吉本はそれもまた「物語」を自己表出(Y軸)に沿ってさらに垂直に上昇したものとみている。劇的言語帯は物語的言語帯の上に展開されるのである。
吉本の劇の考察はブレヒト批判から始まるのだが、ブレヒトに限らずどの演劇論者も、舞台空間の特異性に気がついていないと批判している。舞台空間とは、詩から物語へ向けて達成された言語の自己表出水準を底辺として、さらにそれを乗りこえた異次元の空間だとしている。象徴劇であろうとリアリズム演劇であろうと、街角で演じられようとビルの屋上であろうと、舞台が舞台である限り、それは詩と物語を超えた異次元の空間なのである。

演劇とは、劇的な言語帯にはいってくる日記物語の言語と説話物語の言語とを、歌舞や所作や道具や舞台に(舞台は境界であるが)転化したところの言語としての劇である。(457頁)

境界ということは、観客は舞台の手前で物語的言語帯にとどまるということであり、俳優は舞台という異次元の空間で劇的言語として存在するということである。俳優に限らず、道具や歌舞もすべて物語を示しているのではなく、物語を超えた劇的言語を示しているのである。「劇という概念は、それ自体が物語を踏み台にした高度なもの」(458頁)である。
この部分だけを抜き出すと、少し気の利いた演劇論というイメージでしかないが、吉本は詩から物語への上昇過程と同様の過程を、能・狂言の成立過程にみているのであり、古典文学の読みが、現代演劇論の先端を超えるのである。
この物語から劇への自己表出の飛躍は、劇においては物語が底辺の露岩となって、その上に劇的言語帯が展開されることである。具体的には物語においては語り手=作者であるが、劇においては語り手が劇の中の一登場人物として振る舞うことによって示される。
この部分は難解なので私なりに敷衍してみると、『サド公爵夫人』はルネを主人公とする物語ではなく、ルネが語り手として物語を語るという劇である。したがって劇中人物になりきるのが優れた俳優ではない。それは劇の結末を知っていながら知らないふりをするという矛盾である。優れた俳優とは作者の意図を洞察して、それを演技に反映できる者である。つまり、ルネが物語を語るという劇を演じることができる者である。三島由紀夫の戯曲が優れているのは、リアリズムを無視して登場人物を最初から物語を語る者として設定しているからだと思われる。また三島の小説は作り物のようであると評されているが、それは小説自体を踏み台とした高度な言語表現だからであり、三島は小説以外に戯曲も得意であったのではなく、その実人生を含めてすべてが演劇的なのである。あの独特の皮肉は、自己の文学さえも踏み台にして距離を置いた者の皮肉である。

言語としての劇の作者たちは、このように振舞いうる人物たちを言語の表出から動作の表出へと追いはらい(抽出し)、ただ劇的な構成に不可欠な要素だけを、言語の表出にのこそうと試みたのである。(470頁)

吉本はさらに、土謡詩から儀式詩への発展と叙景詩・叙事詩を経由して抒情詩へ発展する二つの流れに、狂言から脇能への発展と葛物・世話物を経由して現在物へ発展する流れが対応するとしている。
吉本は狂言が下層民衆的で能が上層武家的であるとする津田左右吉の説を批判し、狂言は写実的であるよりも説話的・土俗的であることによって脇能(儀式能)に直結するとしている。

いつの時代でも、あるがままの大衆は、支配層に直通するものである。(略)あるがままの大衆の様式は逆立すれば、すぐに支配者の様式に転化するものである。ところで知的大衆としての知識層は、あるがままの大衆の共同体(土俗共同体)からの離脱として存在し、支配層への直通の経路を湾曲させるものしてあらわれる。(477頁)

この辺の記述を読むと、かつて軍国少年であった吉本の敗戦体験が反映されているように思われる。私もまたマルクスに共感を覚えつつも「あるがままの大衆」としては天皇制がなくなれば日本人としてのアイデンティティもなくなることに強固なリアリティを感じている。これはもう所与のことであるから、いかんともしがたい。その所与から目をそらしてはならないと思う。