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『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著(その10)

さて吉本は第5章を書き終えて、あたかもペンを置くように自問する。理論が到達しうるところはすべて達成した。なに、芸術における内容と形式だと、そんなものは過去の遺物で作家にとっても評論家にとっても何の役にも立たないではないか? 
そこで私もそろそろ終わりにしたいと思うのだが、この「第6章 内容と形式」を読み進むうちに、これは決して付け足しでもなければ、ヘーゲルくずれの左翼評論家批判というようなものでもないことに気づく。むしろ、吉本の全著作群を読み解くうえで、根本的な指針が示されているのであって、この第6章を読み落とすならば、吉本思想の精確な読解は不可能となり、誤読に陥るほかはないと断言できる。

休養のために読まれるのには『美学』をおすすめします。もし、一奮発して多少とも精読されるならば、驚嘆の念を新にされるでしょう。(「エンゲルスからの手紙」)(536頁)

吉本は「休養」のためには睡眠をねがうと半畳を入れながら、ヘーゲルの『美学』を引用しているが、長くなるので肝要なところを抜粋する。

主観面そのものに存する、それにとっての欠如は、これをふたたび否定しようとする努力をふくんだ否定や欠陥として主観自身に内在している。というのは、主観はそれ自体において、その概念上(本質上)、ひとつの総体をなすものであり、ただ単に内面的なものではなくて、同時にまたこの内面を外面に即して、外面のうちに実現するのである。(竹内敏雄訳)(540頁)

ヘーゲルが言っていることは内面は外面との比較によって内面の欠如が生じ、それを否定して外面に転化するということではない。そんなことでは驚かない。ヘーゲルが言っていることは、内面は欠如そのものを自ら否定する契機を備えている総体であり、内面がそのまま外面であると言っているのだ。つまり内面と外面とを実体的に区別することはできないということである。マルクスは逆にヘーゲルを転倒して外面を総体として、内面は外面であるとしたのであり、それが価値形態論の本質的意味である。するとマルクスのベイリー批判をどう解するかが問題だが、あれは相対価値を否定して絶対価値を主張しているだけであり、貨幣の発生を論じる価値形態もまた絶対価値であることにかわりはない。ということは、形態と実体という区別が無効ということだ。吉本はこの見解が自らの芸術観と合致するものとみている。

芸術の内容と形式の関係は、それとはちがう。内容にすみずみまで浸透せられ、それ以外には動かしようもないものとしてしか芸術の形式は存在しない(539頁)

つまり内容が形式という外面を備えるのではなく、形式がすべてというか、形式と内容の区別が成り立たないのだ。
このことは内容と形式、内面と外面という二項図式が無効であることを意味する。
私はこれまで読解の便宜上、吉本の「意識」概念は自己意識と集合的無意識の複合体であるとしてきたが、ここにおいて、そのような読み方こそが、内面と外面との実体的対立を前提にした読み方であると自己批判する。
吉本の芸術観からすると「意識」はそう名づけられているだけで、実体としては存在しないのだ。形式としての言語があるのみで、それが「内容にすみずみみまで浸透せられ」ているのである。これは決してポストモダン風の後付け解釈ではなく、ヘーゲルポストモダンを産み出しているにすぎない。吉本は1965年に既にそのことを本章で指摘しているのである。