『善の研究』 西田幾多郎著(その1)

第一編 純粋経験
第一章 純粋経験
純粋経験とは「思慮分別を加えない経験そのまま」を「自己の細工を棄てて、事実に従うて知る」ことである。ここで西田は、経験を「知ることである」としている。
そこで次の疑問が生じる。純粋経験は広義の感覚与件を含むイメージか?
サルトルは感覚与件と想像とを峻別するが、ここでいうイメージは感覚与件を含む)
西田は「色を見、音を聞く」と言っているから、イメージであろう。よって、経験とは「知ること」と言いながら、その「知る」とは論理を知るのではなく、感覚与件を含むイメージによる把握である。だからこそ「知ること」は経験といえるのである。
西田はここで通常の諸学(物理学、化学など)、他人の意識、自己の判断を加えた意識を純粋経験から除外している。
よって西田の言う純粋経験とは、①感覚与件、②判断以前の想起の二つである。簡略化のため、①②を総称してイメージとする。さらに①と②の性格から、純粋経験は現在意識であるとしている。
そこで次の展開が少し難しい。西田はそのように純粋経験を定義しながら、「凡ての精神現象」が純粋経験の「形に於いて現れる」と一見矛盾したようなことを言うのである。
これは次の段落において、「凡ての精神現象の原因である純粋経験」と言っていることから、純粋経験を原因として凡ての精神現象が成り立つと言っているように思われる。
このように解すると、精神現象の様々な例(過去の意識、三角形、快不快の感情)について、それらが現在意識である純粋経験を原因としていることが分かる。
さらに現在意識の「現在」という意味を拡張して、意識の焦点を現在としている。だから断崖絶壁の登攀、音楽家の演奏など意識と知覚が「厳密なる統一」の相にあるとき、時間の長短に関わらず「現在」なのであり、これらも時間的幅をもった純粋経験となる。
このことから西田は、純粋経験の純粋とは、単一とか瞬間という意味ではなく、意識の統一にあるという。
ここまでは以上のように概ね理解できるのだが、次の文が分からなくなる。
「意識は決して心理学者の所謂統一なる精神的要素の結合より成ったものではなく、元来一の体系を成したものである。初生児の意識の如きは明暗の別すら、さだかならざる混沌たる統一であろう」(『西田幾多郎全集第1巻』岩波書店刊12頁。以下「同上」とする)
私はここにちょっとした飛躍があると思うのだが、西田は音楽家の演奏とか断崖絶壁の登攀とかの例をあげているが、これらは「心理学者の所謂統一」の例である。これらの成人の意識統一と、初生児の意識の「混沌たる統一」とは全く別のものである。
これら二つの異質な意識がなぜ同じ「統一」という言葉で言い表されるのか、西田は説明していない。飛躍があるというのは、このことである。
だが西田の意を汲んで、「元来一の体系」とは初生児の無意識のような意識統一であり、成人の意識統一も純粋になればなるほど、それはあたかも初生児の無意識のようになるのだと言っているのかもしれない。私にはそう読める。
さて、私はピアノが弾けず、登山の趣味もないので、西田の言う成人の意識統一の例がいかなるものか分からないのだが、何かに熱中して時を忘れるとき、それは赤子のような無心な状態になっているのだと言われれば、それはそうかもしれない。
西田はその統一の方が初源だと言っているのである。その後に大人の意識統一がくるのだが、しかし、それは本質的には別物ではないと言っているようだ。
つまり西田のいう純粋経験の意識統一とは、現代人にとっては無意識のようなものであり、いわゆる自己意識の統一のことを言っているのではないのだろう。初生児の意識などは、どうみても無意識そのものであり、主客未分の純粋経験も同様の無意識のように思われる。西田は純粋経験の意識統一を語りながら、次のようにも言っている。
「知覚的活動の背後にも、或無意識統一力が働いて居なければならぬ。」(同上13頁)
つまり、純粋経験において意識統一と無意識統一力とを同根源的としているのであり、二つの矛盾した統一を共存させているのである。
音楽家の演奏とか、登攀などの例を持ち出すからややこしくなるのだが、それらも主客未分の純粋経験の相においては無意識的統一力が背後にあると言っているのである。
とはいえたとえ無意識に近くても、西田は「混沌たる統一」といっているのだから、それは精神分析の無意識(去勢以前の初生児に意識の統一はない)とは異なるのである。
善の研究』の段階では、西田はこの「混沌たる統一」を自明の前提として、様々な分化発展と統一化の動きを説明しているが、それらは単なる言葉の言い換えでありレトリックであって、私としてはこの統一をもたらすものがなんであるかが納得できない限り、純粋経験がなんであるかは分からないと言わざるをえない。
ただ、ここで西田は西洋哲学にはない斬新な提言をしている。大胆にも純粋経験の意識統一とは初生児の意識統一だと言っているのである。だからこそ無意識における無秩序と西田の「混沌たる統一」とがどのような関係にあるのか見極めたいのだ。