『善の研究』 西田幾多郎著(その2)

第一編 純粋経験
第一章 純粋経験 (続き)

さて前回(その1)において、私は西田が純粋経験において意識統一と無意識統一力を同根源的に共存させていると述べた。そのことがどういう事態をさすのか、西田の説明を見てみよう。
「併し表象的経験であっても、其統一が必然的で自ら結合する時には我々は之を純粋の経験と見なければならぬ」(『西田幾多郎全集第1巻』岩波書店刊13頁。以下「同上」とする)
「ならぬ」が好きな人で辟易するが、ここで西田が言っているのは、表象的経験が意識的主観性を帯びているにもかかわらず、その「統一が必然的で自ら結合する時」は、純粋経験となる、すなわち無意識の統一力でもあるということだ。
それはそうだろう。統一自体が自ら必然的に結合するのだから、それは意識による統一ではない。あるいは西田のいう「意識」とは無意識的統一力でもあるということだ。
したがって、それは私が理解している「意識」概念とは決定的に異なるのであり、意識と無意識の絶対矛盾的自己同一の先取りを感じるのである。ではこの必然的で自ら結合する統一とは何か。
私は前回、イメージ(表象)に感覚与件を含めると、サルトルなら目を剥くような定義をしたが、これは西田の定義でもある。
「表象であっても、感覚と厳密に結合して居る時には直に一つの経験である」(同上13頁)
つまり表象も感覚与件も純粋経験であり、「夢に於いてのように外より統一を破る者がない時には、全く知覚的経験と混同せられる」(同上13頁)と言うのである。
西田は「混同」と言っているが、表象と感覚与件を厳密に区別していない。その純粋経験の定義からすると、統一力がある限り、表象と感覚与件は同じ経験となるのである。
このことから、西田は夢を含む表象と感覚与件を統一力がある限り、一個のシニフィアンと見ていることが分かる。次の文を見てみよう。
「之が現在の統一を離れて他の意識と関係する時、もはや現在の経験ではなくして、意味となるのである」(同上13頁)
これはある統一した一つのイメージが他のイメージと関係すると意味を生成すると言っているのであり、現代流に言えば、一つのイメージをシニフィアンとして他のシニフィアンと関係することで意味(シニフィエ)を生成するということにほかならない。
つまり西田の純粋経験は意味のない一個のシニフィアンである。
いたずらにアナロジーで現代思想に西田哲学を結びつけるのは慎むべきであるが、私の関心があるのはアナロジーではなく、西田のいう「統一」の本質である。西田の書いているものから判断すると、それは意味以前の統一であるようだ。
「統一が厳密であるか或は他より妨げられぬ時には、此作用は無意識であるが、然らざる時には別に表象となって意識上に現はれ来り、直に純粋経験の状態を離れるやうになる」(同上14頁)
この文も、あたかも表象が純粋経験ではないように誤読してしまうのだが、西田はあくまで統一を失った表象が純粋経験を離れると言っているにすぎない。よく読めば無意識的統一の表象が純粋経験であり、意味以前の統一だと言っているのである。
次の展開で西田は主意説を援用して、純粋経験と意志を結合するのだが、曖昧である。
つまり「主意説のいふ様に、意志が意識の根本的形式であるといひ得るならば」(同上14頁)というように仮定によって展開しているようにみえるのだが、西田は全然仮定していない。純粋経験が意志でもあることを当然の前提としている。その後の展開をみると、<純粋経験を意志の面からみれば>という展開になっている。なぜ仮定としたのか。それは主意説とは異なると言いたいためであろう。
「この統一作用を離れて別に意志なる特殊の現象あるのではない。此の統一作用の頂点が意志である。思惟も意志と同じく一種の統覚作用であるが、その統一は単に主観的である。然るに意志は主客の統一である」(同上14頁)
西田は「統一」の本質が意志だと言っているのではない。逆である。統一こそが意志と純粋経験の本質だと言っているのだ。そこが主意説との違いであろう。ショーペンハウアーの盲目的な衝動意志も西田にとっては「物自体」ではなく「特殊の現象」なのである。
「経験は自ら差別相を具えた者でなければならぬ」(同上15頁)
つまり統一があるということは差異でもあるということだ。
「経験の意味とか判断とかいふのは他との関係を示すにすぎぬので、経験其者の内容を豊富にするのではない」(同上15頁)
これも純粋経験シニフィアンであるとすると、シニフィエ(意味)はシニフィアン純粋経験)の関係を示すと言っていると読める。また、シニフィエシニフィアンを豊富にするのでもないことは当然である。
「意味とか判断とかを生ずるのもつまり現在の意識を過去の意識に結合するより起こるのである。即ち之を大なる意識系統の中に統一する作用に基づくのである」(同上16頁)
意味が生ずるのは「意識」というシニフィアンの結合である。そしてこの結合は「意識系統の中」の統一である。何を言っているのか。西田が「統一」というとき、それは純粋経験の無意識の統一である。ということはシニフィアンの連鎖は無意識の統一力によるということのようだ。
「意味とか判断といふのは(中略)意識系統に於ける現在意識の位置を現はすに過ぎない」
これも意味とはシニフィアンの位置を現すと解することができる。
次の展開で西田の「意識」概念はやや混乱した様相を呈するのであるが、根気よく注意深く読んで用例の違いを識別する必要がある。
「現在の意識」「過去の意識」は、注意の焦点を伴う意識、すなわち純粋経験であり、シニフィアンである。
これに対し「関係の意識」は意味であり、シニフィエである。
すると「統一的意識」とはシニフィアンシニフィエを統一した記号自体ということになる。次の文がその根拠である。
「意味とか判断とかいふ如き関係の意識の背後には、此関係を成立せしむる統一的意識がなければならぬ」(同上15頁)
このように整理すると、西田の次の文は一見、味噌も糞も一緒にしているような印象を受けるのだが、そうではないことが分かる。
純粋経験とその意味又は判断とは意識の両面を現はす者である。即ち同一物の見方の相違にすぎない。」(同上17頁)
誰が読んでも何を言っておるのか、ととまどうであろう。なぜなら西田は純粋経験とは現在意識であると定義しているからであり、また意味は関係の意識であると定義しているからである。それらが意識の両面を現すというのだから支離滅裂であろう。
だが、現在意識(シニフィアン)と意味(シニフィエ)とが統一的意識(記号)の両面を現すと読めば、これは記号学の知見と見事に整合するのである。
本書の出版は1911年であるが、日本へのソシュールの輸入が1928年であるから、偶然の一致であるが、西田はその深い思索によって自らそれに気づくことなく予見したのである。
この章は不思議な問いで終わる。
「かく意味といふ者も大なる統一の作用であるとすれば、純粋経験はかかる場合に於いて自己の範囲を超越するのであろうか」(同上17頁)
これまでの解釈が成り立つとすると、この「大なる統一作用」とは、記号の統一作用である。これが純粋経験である無意識の統一力を超越するかと問うているのである。
そして結論は超越しないと西田は考えているようだ。
「同一内容の意識は何処までも同一の意識とせねばなるまい」(同上17頁)
これもまたシニフィアン(同一内容の意識)はどこまでもシニフィアンにとどまり、意味(シニフィエ)になることはないという当然のことを言っているにすぎない。
だが、「大なる統一」と区別される無意識の統一力とは何か、この疑問は残るのである。予断が許されるならば、これが「場所の論理」へと発展するものと推測される。

さらに言えば、この無意識の統一力はカントの構想力に類似している。カントは三批判において感性・悟性・理性を主役として、構想力を意識されざる盲目の統一として脇役にしている。これによりカントは心 das Gemüt を主体としているが、西田哲学では構想力が主役となって心は解体されるのである。