『善の研究』 西田幾多郎著(その3)

第一編 純粋経験
第二章 思惟

前回、私はシニフィアンシニフィエを使って西田の純粋経験を読み解いたのだが、類推はここまでである。やはり西田哲学は西洋哲学とは区別される独自性がある。
その独自性が、前回の問いである「大なる統一」(記号の統一作用)と純粋経験の無意識の統一との差異とは何かという問いに繋がるのである。
ソシュールにとってシニフィアン(意味するもの)とはあくまで感覚対象(インクのしみ、聴覚内容)である。したがってシニフィアンは何らかの主観によって統一されることになる。それが西洋人の発想である。
これに対し、西田は「統一が必然的で自ら結合する」と述べている。つまり無意識の統一力自体が自らを結合するのだ。ここが決定的に異なる。
この章の結論は次の有名な文である。
「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである。」
純粋経験が無意識の統一であることは分かった。そこで「個人」という言葉で西田は何を言おうとしているのかが問題となる。仮に個人を主観と読み換えると、主観があって無意識があるのではなく、無意識があって主観があるのである、ということになる。だが、それだとフロイトと同じである。私にはその読みはまだ浅いと思うのだ。西田は究極において個人など存在しないと言っているように思う。これから検証してみよう。
哲学者はあたかも愚か者であるかのごとく一本調子に問いを深めていくのである。西田は純粋経験はさておき・・・ということで、話題を「思惟」に移しているのではない。「思惟」の探究を通じて純粋経験の探究を深めているのである。
「判断の背後にはいつでも純粋経験の事実がある。判断に於て主客両表象の結合は、実に之に由りてできるのである」(『西田幾多郎全集第1巻』岩波書店刊18頁。以下「同上」とする)
ここでいう「主客両表象」とは主観・客観ではなく、主語・述語という意味であろう。判断について論じているのだから。小林敏明(『主体のゆくえ』)によると、西周は論理学の主語を主格、述語を客格と呼んでいたらしい。その名残であろう。
するとこの文章は、純粋経験の事実(無意識の統一)が主語と述語を結合させていると読める。西田は「馬が走る」という判断が、「走る馬」という一表象を分析して生ずるとしているが、ここで分析している主体は誰か? 常識では「走る馬」を見ている主体が分析していると思うのだが、そうではない。「走る馬」に潜む無意識の統一が、自ら分析しているのである。それが無意識の統一が主語と述語を結合させているという意味である。
のみならず幾何学などの純理的判断においても、その基本において「統一的或者の経験」があるとし、「思惟の必然性」は「之」によるとしている。
ここで「統一的或者」とか、「之」とかぼかして言っているのは、全部、純粋経験すなわち無意識の統一のことである。主観的意識ではなく無意識の統一が幾何学などの判断の基礎にあると言うのである。あまりにもオカルトな主張なので口ごもったのだろう。
例えば三角形の内角定理の必然性をカントは主観のアプリオリな形式である空間概念によって根拠づけたのであるが、西田はノエマ的対象自体の統一によって基礎づけているのである。アプリオリな必然性も純粋経験によって基礎づけている。そう考えればその学説の異様さが分かるというものである。もっともカントもまた盲目の「構想力」が表象を統一するということで、西田と同じことを予感していたようだ。
確かに経験を超えたアプリオリな必然性をアポステリオリな経験によって基礎づけるというのは矛盾である。しかしそれが矛盾であるのは、経験とは別個に主観を立てているからである。経験を超えたアプリオリが経験とは別個に立てられた主観に帰属するというカントの主張は、よく考えると当たり前のことである。
西田のように純粋経験それ自体が統一力をもつというのは、純粋経験が主体であるということだから、経験を超えたアプリオリは存在しない。三角形の内角定理は純粋経験の統一力にその必然性の根拠をもつとはそういうことである。